サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

綺語の伽藍 三島由紀夫「祈りの日記」

 三島由紀夫の短篇小説「祈りの日記」(『鍵のかかる部屋』新潮文庫)に就いて書く。

 平仮名を潤沢に含んだ女性の一人称による語りは、同じく三島の最初期の作品である「みのもの月」にも共通する特徴的な様式である。フランスの心理小説の伝統と共に、三島の深い文学的教養の重要な地盤を成す王朝期の古典の影響が窺われる。後年の硬質で理智的な文体とは対蹠的に、流麗な和語の纏綿たる蠕動が、息の長い律動を伴って独自の境涯を築いている。筋書き自体は、それほど複雑なものではないし、そもそも重大な価値を作者によって認められているようにも思えない。「花ざかりの森」も「みのもの月」も、或る何らかの客観的な事実や、堅牢な物語の構築に対する野心とは無縁の衝迫によって綴られた作品であるように感じられる。言い換えれば、この時期の三島の主要な関心は「物語」よりも「詩歌」に向けて捧げられていたのではないかと推測される。言葉を通じて何を描き出すかという戦略的な意図よりも先ず、言葉そのものの美しさや、燦然たる感覚的跳躍そのものを玩味することが重視されているのである。

 一つ一つの感覚的表象を束ねて首尾一貫した構造物を建設する為には、理智的な統御の力を行使する必要がある。目紛しく移り変わる主観的な印象の断片に見蕩れている限り、そうした大仰な工事を最後まで貫徹することは困難である。詩人は事物の構造や関係を明晰に語るのではなく、言葉そのものの配列や色調や変遷に尽きせぬ関心を懐き、それらを楽譜のように列ねることに自らの本分を見出す。詩人は言葉の美しさを何よりも強く劇しく珍重するが、小説家にとっては、一つ一つの単語の粒立った美しさや、単語の群れが織り成す絢爛たる紋様の輝きは、寧ろ食い破るべき欺瞞として顕れる。抒情的な綺語の裏面に封じられた諸々の酷薄たる現実を剔抉しない限り、小説に固有の衝撃力は賦活されない。言葉としての美しさが、小説の価値を判定する基準として用いられるのではない。それゆえ、却って詩人の方が四囲の現実に対する冷淡な虚無主義を持していると考えられる。彼らは現実的な美しさを黙殺してでも、言葉としての美しさを優先し、その超越的な韻律の錬成に心を砕くのである。

 煌びやかな綺語の集積に耽溺し、退屈で見苦しい現実を蔑視する態度に就いては、他ならぬ三島自身の手で、例えば「詩を書く少年」と題された短篇において分析されている。

 彼は自瀆過多のために貧血症にかかっていた。が、まだ自分の醜さは気にならなかった。詩はこういう生理的ないやな感覚とは別物である。詩はあらゆるものと別物である。彼は微妙な嘘をついていた。詩によって、微妙な嘘のつき方をおぼえた。言葉さえ美しければよいのだ。そうして、毎日、辞書を丹念に読んだ。(「詩を書く少年」『花ざかりの森・憂国新潮文庫 p.102)

 「言葉さえ美しければよい」と断言して躊躇いも恥じらいもせずにいられることが、若年ゆえの倨傲な特権であるならば、確かに詩歌という様式は、青年に固有の表白の手段であると言えるだろう。美しい言葉に備わる魔術的な効能を確信し、美しくない不愉快な現実を露骨に軽侮していられるのは、坂口安吾の表現を借りるならば「老成の実際の空虚」に由来する暫定的な廉潔に過ぎないのではなかろうか。「詩はあらゆるものと別物である」という信条は、現実の実質的な克服に根拠を有するものではなく、飽く迄も現実から独立した詩語の閉鎖的な性質に対する依存に基づいている。本当に追い詰められたとき、単なる煌びやかな修辞の羅列は聊かも人間の精神を慰藉しない。仮に言葉が魂を慰藉し得るとすれば、それは言葉が単なる空疎な綺語に留まらず、言葉だけの規則や体系の裡に逼塞することもなく、不合理な現実との間に有機的な聯関を架橋している場合に限られる。

 少年の書く詩には、だんだんに恋愛の素材がふえた。恋をしたことはない。しかし詩が自然物の変貌にばかり托して作られることは彼を飽かせ、心の刻々の変貌を歌うことに、気が移って行ったのである。自分のまだ経験しない事柄を歌うについて、少年は何のやましさをも感じなかった。彼には芸術とはそういうものだとはじめから確信しているようなところがあった。未経験を少しも嘆かなかった。事実彼のまだ体験しない世界の現実と彼の内的世界との間には、対立も緊張も見られなかったので、強いて自分の内的世界の優位を信じる必要もなく、或る不条理な確信によって、彼がこの世にいまだに体験していない感情は一つもないと考えることさえできた。なぜかというと、彼の心のような鋭敏な感受性にとっては、この世のあらゆる感情の原形が、ある場合は単に予感としてであっても、とらえられ復習されていて、爾余の体験はみなこれらの感情の元素の適当な組合せによって、成立すると考えられたからであった。感情の元素とは? 彼は独断的に定義づけた。「それが言葉なんだ」(「詩を書く少年」『花ざかりの森・憂国新潮文庫 p.110)

 総ての元素を掌中に収めていれば、如何なる化学式も自在に諳んじることが出来るという聊か驕慢な信念は、総ての事象を数学的証明によって定義しようと試みるプラトニックな思惟の様式を想起させる。少年は「新しい体験」というものの実在を信用していない。無論、あらゆる芸術が常に具体的な現実の精密な反映や模写でなければならないという偏狭なリアリズムは批判される必要がある。しかし同時に、森羅万象を「言葉」という体系の内部に幽閉し、完結させる態度も論難されるべきであろう。少年にとって四囲の現実は、無菌室に保管されたプレパラートの中の僅少な標本に過ぎない。顕微鏡で覗き込んだ些細な検体だけを頼りに、彼は世界の総てを把握し、理解したという大仰な確信の裡に憩っている。そのとき、芸術の本質は純然たる物質的技術の問題に還元され、生得的な感受性の水準だけが、作品の価値を直截に規定する唯一の根拠として崇拝されることになる。それならば、芸術は感性の遊戯に過ぎないのだろうか。私は別に、芸術の倫理的な意義を声高に強調しようと試みているのではない。詩歌の価値を独断的に貶下する意図もない。辞書に記された言葉の暗誦に長ずることが詩人の才能であるならば、それは退屈な趣味に過ぎない。しかし、辞書を編輯する人々にとっては、一つ一つの語釈の執筆が不合理な現実との絶えざる交錯の所産である筈だ。言葉の彼方に存在するものを把握せずに、言葉だけで優れた生を形作ることは不可能である。