サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「日常」という監獄 三島由紀夫「慈善」 2

 三島由紀夫の短篇小説「慈善」(『鍵のかかる部屋』新潮文庫)に就いて書く。

 よしこのような粗暴な決心が、朝子への思いがけない感情の傾斜度に、あとからつけた照れ隠しの理窟であったにせよ、彼はこうして行為を簡単明瞭にジャスティファイしてくれるような思考の世界へ、再びはまりこんでいたと云うべきである。青年らしい虚栄心は、しばしばこうした浮薄な動機から悪に近い行為へ導きもするが、決して悪そのもの、どうにも正当視されぬような行為へは導いてくれないのだ。悪徳の虚栄心が悪徳そのものの邪魔立てをする。「魂の純潔」なるものを保たせようとするならば、少くとも青年には、美徳の虚栄心よりも悪徳の虚栄心の方が有効なのである。(「慈善」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 pp.121-122)

 要するに康雄は如何なる「行為」を求めているのだろうか。あらゆる思想を、自己正当化の方便として利用する恣意的なニヒリズムが、「戦争」及び「放蕩」という彼の属する二つの主要な世界において、柔軟で自在な活躍を支える重要な原動力として働いたことは既に作者によって語られている。論理は任意に組み合わされて、個人の身勝手な欲望や衝動的な蛮行を弁護する尤もらしい法律の役割を担う。所詮「思想」とは、その程度の便宜的な手段に過ぎないという康雄の「無軌道な諦観」は、そもそも「美徳=悪徳」という倫理的区分を失効させるものである。彼にとって「思想」は、諸々の具体的行為の良し悪しを裁定する最高位の審級を占めるものではなく、寧ろ行為を擁護する為に臨時で雇用され、頤使される便利な奴隷に過ぎない。それゆえに「思想」によって支配されたり悔悟に達したりする倫理的な苦闘は、彼の放縦な生活とは無縁である。敗戦という「大きな耀かしい失望」を契機として、康雄は何らかの理由に強いられて、従来の「無軌道な諦観」の限界を自覚し始める。戦時下の「破局」が約束されていた世界において、道徳的責任という理念は畢竟、無意味な御題目に過ぎなかっただろう。確実な未来を所有することの出来ない人間に、刹那的な虚無主義の廃絶を要求しても不毛である。けれども敗戦は、確実な未来に対する明朗な信頼を復活させた。それは日常生活における道徳的=社会的責任という理念の大規模な復権を示唆する。何より、それまで遵奉されてきた価値観の根源的で急激な変貌を含意する。康雄が「どうにもジャスティファイされないだろうような行動」(p.108)の探究に踏み切ったのは、従来の「無軌道な諦観」を支える根源的な「アモラリティ」(amorality)の延命を図る為である。無論、戦時下における康雄の「アモラリティ」と「無軌道な諦観」は、所謂「悪徳」とは区別されねばならない。「悪徳」は明確な倫理的標準への抵触を意味するが、アモラルであるということは、そもそも明確な倫理的基準自体が破綻して、如何なる指導力も発揮し得ない状態を指しているからである。

 こうして彼の冒険が至るところであの確実さという壁に彼を突き当らせた。それは矛盾ではなかったか。彼はまず確実さの中に冒険を求めたのではなかったか。是認されがたい行為への欲求も、この一風変った、しかし困難な冒険心だけがみたしうるものではなかったか。

 ともすると彼は方法を間違えているのかもしれなかった。どうにもジャスティファイされぬ行為というものを悪徳の中にだけ探し求めている彼は、誤っているのかもしれなかった。それを悪徳以外の場所に探しさえすれば、この確実さの壁も破れ、確実さへの冒険も可能になるのではなかろうか。(「慈善」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 pp.123-124)

 「悪徳」の内部にさえ、堪え難いほどに確実な未来への信仰が息衝き、不壊の反復が埋め込まれていることを知って、康雄は愕然とし、失望する。彼が「悪徳」を求めたのは、急速に復興を遂げつつある堅牢な日常的秩序への抵抗の根拠を構築する為である。「どうにもジャスティファイされぬ行為」とは要するに、如何なる「意味」にも「理念」にも還元されない虚無的な自由を示唆する表現であると考えられる。そうした融通無碍の自由を奪還する為には「悪徳」と呼ばれる営みを経由することが最適であると、康雄には思われたのである。しかしながら「悪徳」は必ずしも「確実性」の原理に背反しない。秀子との定期的な情事は紛れもない淪落の営為だが、それさえ平穏な世界においては持続的な習慣と化し、或る強制的な法則としての権威を帯びてしまうのである。「悪徳」は、世界の緊密な確実性を震撼するどころか、寧ろ単調な反復としての日常性に屈服し、併合され、本来の野蛮な毒性を削り取られて、陳腐で見苦しい不品行へと堕落させられてしまう。矮小な悪事の醜さは、世界の終末を齎すような壮麗な破壊とは無縁である。堅固に構築された日常性は、英雄的な功績の樹立される可能性を減殺すると共に、諸々の悪事さえも瑣末な過失の類に貶めてしまうのである。偉大なる善行が不可能な世界では、眼を覆いたくなるような非人間的な大罪もまた犯し得ない。極楽と地獄とを往還するような莫大な振幅は禁じられ、退屈な善人と卑小な悪人だけが巷間を闊歩する。「悪徳」は「美徳」との間に相互的な補完の密約を結んでいる。「美徳」に刃向かう為に「悪徳」を持ち出すのは、それ自体が退屈な誤算に過ぎない。

 戦争が道徳を失わせたというのは嘘だ。道徳はいつどこにでもころがっている。しかし運動をするものに運動神経が必要とされるように、道徳的な神経がなくては道徳はつかまらない。戦争が失わせたのは道徳的神経だ。この神経なしには人は道徳的な行為をすることができぬ。従ってまた真の意味の不徳に到達することもできぬ筈だった。

 しかし秀子が不用意に言った言葉によれば、康雄と秀子とは道徳的な神経をこれっぽちも持たずに、やすやすと不貞に到達することができたらしい。無道徳がやすやすと不徳に到達したらしい。それならば、と康雄は考えるのだった。どうしてそれがやすやすと道徳へも到達しない筈があろう。(「慈善」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 p.133)

 アプレゲールの青年たちが抱え込む奇妙な寂寞は、戦時下の世界で養われた「無道徳」の畏怖すべき自在な境地と、戦後社会の要求する堅固な日常的秩序との矛盾に由来するものであると思われる。無論、戦時下においてさえ、軍国主義的色彩を濃密に伴った「道徳」が強制的な規範として猛威を揮っていたことは明瞭な史実である。しかし、客観的に流通する個別的な徳目と、人間に内在する「道徳的神経」の機能的な不全とは必ずしも対立しない。そして個別的な徳目を「美徳/悪徳」の何れの範疇に配置するかという問題は、時々の社会の性質や趨勢に応じて無限に変容し得る。言い換えれば、人間の「道徳的神経」とは「罪悪」に関する感受性の機能を指している。その感受性が壊れてしまえば、如何なる行為に及んでも、罪責の観念に苛まれたり、或いは正義の観念に陶酔したりすることは不可能となる。「罪悪」の徹底的な相対性に浸蝕された魂魄は、如何なる行為を選んでも、揺るぎない「美徳」や「悪徳」の称号を信奉することが出来ない。「罪悪」に対する不感症こそ「無道徳」という概念の本義である。それゆえに康雄は不貞の関係に深入りしても「悪徳」の実感を享受することが出来ないのである。彼の「無軌道な諦観」は、あらゆる行為を肯定すると同時に否定している。明瞭な「価値」の基準が存在しない世界では、彼が幾ら望んでも「善行」や「悪行」に到達することは許されない。

 絶対に無道徳な貞節というものが可能ではあるまいか。絶対に道徳を知らないで道徳に奉仕することができはすまいか。無道徳という無限定が、その無限定のために、やすやすと不徳乃至道徳という限定に包まれうるものならば。象が大きすぎるというだけの理由で鼠に負けるならば。

 ――絶対に動機のない、絶対に道徳的基準のない善行がここにあるのだ。善行の善という属性は外から与えられたもので、最後まで内部とは無関係だ。すると彼は動機において決してジャスティファイされない行為をもつわけだ。なぜならもともと正当な行為をどうしてジャスティファイすることができよう。

 ――彼は今日以後確乎として崩れない慈善家の眼差を持とうと決心するのだった。さしあたっての善行は、この世にもノンセンスな貞節を成就させること、秀子と別れることなのである。(「慈善」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 pp.133-134)

 こうした叙述は、極めて冷笑的なニヒリズムの自覚を意味するものに他ならない。一縷の「道徳的神経」さえ保持せぬままに、人間は「善行」を積み重ねたり「悪行」に手を染めたりすることが出来るという省察は、あらゆる徳目や罪過を徹底的に皮相なものとして遇するという態度と相関している。罪悪を知らぬ咎人、正義を弁えぬ聖者として生きること、これが康雄の新たな決意であり、戦後社会に対峙する為の私的な骨法である。若しも「道徳的神経」が生き延びていたら、悪事を働くにせよ、慈善を志すにせよ、一つ一つの行為や決断には絶えず煩瑣な内省が附随し、矛盾と葛藤の苦しみが派生するだろう。それゆえに彼は生粋の「善人」にも「悪人」にも徹することが出来なかっただろう。しかし「道徳的神経」の消滅は、そのような思想的格闘の発生する土壌自体の消滅を含意する。明瞭に自覚されたニヒリズムが、日常性の監獄に対する防疫の手段として康雄の内面に備わる。事物の背後に超越的な「意味」を探究する内面的な生活は棄却され、代わりに事物の「表面」だけが特権的な注目を享受するようになる。

 全く無動機の善行がこうも確実な善をいくつとなく地上にばらまいてゆくのでは、人間は救われない気持がした。善は彼の手を離れて、星のような恒久不変なものになって、金輪際彼の行為をジャスティファイしてくれる由もないのだった。今では彼の行動をどうにもジャスティファイしてくれぬ思考の正体がわかりかけた気がするのだった。それは人が「宗教」と呼ぶところのものである。彼はこのままの気持では子供を待つことができないと感じ、子供を始末するような行動から自分を救うために、何らかの宗教に帰依しなければと決心した。ところが読者もすでに見られるとおり、彼にはその重要な条件が欠如しているのだった。――それは「悔恨」である。(「慈善」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 p.138)

 康雄の選び取った「無動機の善行」は、偶然とはいえ他人の様々な「幸福」を産み落とす。それは彼の内面的な充足を齎す揺るぎない現実であると言えるだろうか? 寧ろ予期しない善果の続発は、却って「善行」というものの価値に対する彼の虚無的な感想を深めるばかりではないだろうか。「道徳的神経」から切り離された善行、如何なる善意とも無縁の善行は、彼の行為や生活を一切庇護せず、正当化もしない。無論「悔恨」もまた「道徳的神経」の一部である。康雄の試みた欺瞞的な処世術は極めて急速に罅割れ、瓦解する。それは「道徳」が「日常」という監獄を形作る重要な骨格であることの間接的な証明であると言えるのではないだろうか。「日常」という新たな戦後的審級が、康雄の「無道徳」を断罪したのではなかろうか。