サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

虚無と栄達 三島由紀夫「訃音」

 三島由紀夫の短篇小説「訃音」(『鍵のかかる部屋』新潮文庫)に就いて書く。

 有能で人心掌握の技術にも長けながら、その人格の根底において酷薄で、権力に対する妄執に身を焼かれている若い財務官僚の内面の変遷を描いた「訃音」は、アプレゲールの青年たちの抱え込んだ「虚無」の症候に関する三島の様々な作品の系譜に列なるものであると言えるだろう。

 足を組んで、煙草に火をつけて、それを読み出した。

『……些事にまして、この世でわれわれを苦しめるものはない。怖ろしいのはむしろ嵐ではなくて、水平線上にあらわれた一点の雲である。彫刻家は時として細部のために悩み、詩人はたった一つの詩語のために思い悩む。世界を圧倒するほどの苦悩と謂ったものは、哲学的な天才の専有物ではなくて、たとえば歯痛という形で万人に与えられているものである。歯痛のなかにも世界苦の表白があるのであり、苦悩の等質性オモジエネイテが精神の問題に先行することを人々は忘れている。……』

 予期したとおり、断じて興味のある本ではない。局長は仮綴の翻訳書を鞄にしまうと、

「もう二三十分だね」

 と言った。(「訃音」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 pp.140-141)

 「十九世紀の二流詩人の随想録」の翻訳として引用される上記の叙述は、この「訃音」という作品の主役である檜垣金融局長が後に陥ることになる、奇妙な精神的不均衡を暗示する伏線である。檜垣局長は異例の昇進を重ねた有能な自信家であり、自己の容貌に深い愛着を懐いて恥じないナルシシストでもある。彼は他人の印象を操作する為の身嗜みや振舞いに就いて非常に鋭敏な神経を備えている。この完璧な男が、愛用の象牙のパイプを紛失したという「些事」の為に心理的失調へ陥り、思わぬ社会的危殆に瀕するというのが「訃音」の筋書きの大雑把な要約である。

 大抵のものを軽蔑している結果、檜垣は愛想のよい人物と見られていた。酒の席では豪傑を装ったが、すこし人を見る目のある人間なら、彼の性格に豪傑風なところが微塵もないことを見破ったであろう。自然さが人間を大ならしめる要素であることをよく承知していて、あまり不自然な謙遜は差控えるほどに傲慢であった。彼はすこし中和した己れを世間へ示した。世間というものは、女と似ていて案外母性的なところを持っているのである。それは自分にむけられる外々よそよそしい謙譲よりも、自分を傷つけない程度に中和された無邪気な腕白のほうを好むものである。

 しじゅう冷たい満足、冷肉のような満足が彼の胃に溜っていた。満足が永つづきするためには、冷えていなければならない。或る人々にとっては野心がその身を灼くのであるが、彼の野心はものを冷やす作用をした。これは野心が高級で本物の証拠である。檜垣は「本物」という言葉を愛して、よく使った。(「訃音」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 pp.145-146)

 世間に対する筋金入りの侮蔑が却って、機械的な愛想の良さを生み出すという絡繰は、正にニヒリズムの典型的な症例であると言えるのではないだろうか。本物の愛情は、本物であるがゆえに依怙贔屓の性質を持ち、誰に対しても等しく注ぎ得るものではないが、誰のことも愛さない人間は逆説的に、博愛主義の相貌を身に纏うことが容易となるのである。こうした消息は、如何なる価値の規範も信奉しないがゆえに、如何なる価値の規範に対しても束の間の忠誠を誓い得るというニヒリストの特徴の相似形に他ならない。厭世的な観念が常に、社会に対する露骨な敵意に帰着すると考えるのは早計である。檜垣の欲望は専ら権力の掌握に尽きているのであり、爾余の事柄は悉く「些事」に過ぎない。愛情が些事に過ぎないならば、如何なる対象を愛することも彼にとっては任意の容易な行為に他ならないのである。

 闇のなかで、ふと檜垣の唇に憐憫の微笑が泛んだ。これは時折、誰もいない折に発作のように泛んでくる微笑である。ありふれた微笑ではない。強いて譬えれば美しい女が、誰も見ていない場所で一糸まとわぬ姿になって寛ろぐときに、ふと洩らす微笑の他には類例のないものである。

 酒が心地よく体にゆきわたって、この一種慈悲のようなもの、自分以外の一切の価値に対する憐憫、というよりは人類愛みたいなもの、(檜垣にはこうしたものがみんな同じ種類の酩酊のように思われる)、こういう感情をなぞってゆくのに好適な音楽的な気分が醸し出される。(「訃音」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 pp.155-156)

 こうした「憐憫」が極めて傲慢で虚無的な心情の所産であることは論を俟たない。自分だけが世界の構造を正しく把握し、誰も知らぬ社会の秘鑰を知悉しているという不遜な確信がなければ、このような驕慢な「憐憫」が檜垣の精神を充足させることは有り得ないだろう。他者に対する徹底的な侮蔑が、殆ど神秘的な友愛の仮面を作り出すという奇術は、ニヒリストが社会に適応し、迎合する為に駆使する欺瞞の常套である。そして檜垣は、持ち前の精錬された奇術が見事に奏功して、法外な社会的栄誉を自身に齎している世間の現実に満足している。その満足が「自分以外の一切の価値に対する憐憫」という醜悪な情緒的陶酔を分泌するのである。

 こうした境涯を破壊するものは一般的に、秘匿された悪徳の社会的露顕であろうが、それ以前に先ず、檜垣の完璧な挙措に失調を齎すのは一つの「些事」である。つまり「愛用のパイプの紛失」という至極凡庸な蹉跌が、彼の流麗な立ち居振る舞いを混乱へ導くのである。

 檜垣はこんな沈滞した風景には興味がない。ましてこの土地は自分の生れ故郷でも何でもない。ただ失くしたパイプのことばかり考えた。あの手の象牙のパイプは、代りを探すのが難儀なものではあるまい。大して高価な品でもない。格別の由緒、格別の思い出のまつわった品でもない。どこで買ったのかさえはっきり思い出せない位である。人からの贈物であるかもしれない。いつからともなく彼の掌に馴れ、彼の指先に馴れ、象牙特有の哲学的な色艶を得、彼の生活に欠くべからざるものとなったのである。残り惜しさの理由は、使い馴れたという点にしかない。しかしかけがえのない感じは、これだけの理由で十分であった。おそらくこれ以上の理由は見つかるまい。

 檜垣の目は空しくパイプを夢み、その目には他の何物も映らなかった。理性が何度もこうした感情を笑殺しようと試みるが果さない。檜垣のような男が協議会へ赴く車中で参考書類に目をとおしもせず、失くしたパイプに心を奪われていようなどとは、有りうべからざることである。にもかかわらず、些細な失せ物は彼を思い悩ました。(「訃音」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 p.163)

 あらゆる社会的価値への侮蔑によって法外な虚無的自由を獲得した男が、このような「些事」に心を囚われて失調するというのは皮肉な逆説である。或いは見方を換えれば「些細な失せ物」による心理的不安定化という事実は、檜垣の卓越した政治的才覚が、如何なる価値にも敬服しないニヒリズムによって賦活されていることを立証しているとも言えるだろう。しかも、そのパイプに対する奇態な偏執の理由は、檜垣自身にとっても定かなものではない。パイプ自体に、他の何物にも代え難い固有の客観的価値が認められるならば、檜垣は安心して失せ物の悲憤を訴え、八方手を尽して発見に奔走することも出来ただろう。しかし、パイプ自体が極めて凡庸で特別な由緒を持たないものであるがゆえに猶更、檜垣の固執は彼自身の従前の主義主張を裏切るものとなる。「些事」への固執は、彼の虚無的自由を破壊する危険な蹉跌となり得るのである。

 こうした檜垣の息苦しい屈曲を救済するのが、他ならぬ彼の妻の唐突な「訃音」であったというところに、我々は作者の意地悪な冷笑を見出すだろう。檜垣の憂愁は「些細な失せ物」ゆえの動揺の増幅された形態に過ぎないのに、周囲は彼を「妻の死という苦しみに耐えながら公務を全うする偉大な人物」として誤解し、讃嘆するのである。図らずも彼の小さな蹉跌は、望外の果報を齎したのだ。

 檜垣はまわりの誤解を正確に判断した。妻の死をいつも心の底から待ち希んでいたがそれがおそらく大々的な喀血のおかげか何かで突然こんな風に叶えられてしまったものであろう。彼は檜垣家の財産の完全な所有権者になり、英子は後妻に迎えられることとなろう。その上彼自身の原因不明の憂愁には、見事な表てむきの理由(これぞ唯一のもの!)が与えられたのである。檜垣は気力の回復を感じた。彼は到着した晩の彼と同じであった。象牙のパイプなんか糞喰らえだ!(「訃音」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 pp.176-177)

 この結末において暗示される奇怪な「価値の逆転」は、檜垣という男の邪悪なニヒリズムを殊更に強調しているように見える。愛用のパイプの紛失は、極めて深刻な問題として檜垣を悩ましたのに、妻の死という重大な悲報は専ら「些事」として、寧ろ好都合な事態の到来として受け止められている。「些事」に関する一般的な定義が反転させられることで、檜垣という人物の内面を蚕食する虚無の怪奇な性質が一層、鮮烈に明示されているのである。この「訃音」とは要するに、極めて陰惨な諧謔に覆われた一篇の笑話なのだ。