サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

権威・支配・悪徳 三島由紀夫「怪物」

 三島由紀夫の短篇小説「怪物」(『鍵のかかる部屋』新潮文庫)に就いて書く。

 我々は日常に「善悪」という珍しくもない定規を振り回しながら、互いの長さや形状が異なるがゆえに衝突や係争を繰り返し、様々な事柄に「善」や「悪」のラベルを貼付して、それぞれの倫理的な世界観を構築し、絶えず編輯し続けている。けれども、この場合の「善悪」という観念は、通俗的な表現を伴って示される場合には概ね「好悪」の観念と同義語であり、同義であるというのが言い過ぎだとしても、両者の癒着は極めて根源的なものである。「悪」の普遍的な性質に就いて考究するということは必ずしも容易な作業ではない。何を以て「悪」と看做すかという問題は常に、何を以て「善」と看做すかという問題と不可分の関係に置かれている。そして「善悪」と「好悪」との区別が曖昧な状態へ向かって溶解している場合には、そもそも「善悪」とは主観的で相対的な問題であると定義されることになる。

 この「怪物」という短篇を通じて描かれるのは、血肉を与えられた「悪」の一つの形式である。松平斉茂という悪辣な貴族は、例えば金銭や名誉の為に他人の生命や財産や地位を毀損するのではなく、純粋に他人を毀損することそのものを目的として、数多の残虐な罪悪を犯してきた人物である。

 つねづね多くの人を傷つけ不幸にしているという自覚が斉茂の生きる支えになった。彼はおのれの身にそなわった、生れながらの一種仄暗い力を確信していた。たとえばまた、予感や当て物についての天与の才にも、狂的な自負を抱いていた。彼が或る男を呪う。その男は必ず死ぬか、重患にかかるかした。人の不幸を見ることはつきせぬ慰めであった。中年のころ柄にもなく慈善事業に凝った一時期を持ったが、それはひどい貧乏やひどい悪疫を見ることが目をたのしませたからである。

 彼は中傷や誹謗や離間工策や皮肉や罵詈雑言や根も葉もない噂や醜聞のたぐいをほとほと愛した。分不相応な出世をした男を失脚させたり、仲の好すぎる夫婦を破鏡の嘆に陥らしめたりすることには、おどろくばかりの情熱を賭けたが、この情熱は埒もない復讐の情熱であった。故ない幸福ほど彼の心に侮辱を感じさせるものはなかったのである。(「怪物」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 p.184)

 「他人の不幸を愛する」という性向は一般に邪悪な特質として定義される。他者の不幸を祝福し、同時に他者の「故ない幸福」を劇しく憎悪するという斉茂の人間性に「悪徳」の名を冠するのは至極適切な判断である。しかも彼は、自らの幸福を願いながら果たせずに他人を逆恨みしているのではなく、他人を毀損し不幸の深淵へ陥落させること自体に歓びと生甲斐を見出している。つまり、彼にとって諸般の「悪徳」は何らかの欲望の充足に資する手段ではなく、それ自体が欲望の重要で執拗な焦点なのである。こうした考え方は、人間という種族に対して普遍的に適用される倫理学の試みの根底を突き崩すものである。何故なら、あらゆる倫理学的な努力や工夫は、人間に内在する「幸福」や「善」への欲求の普遍性を信頼し、前提することによって成立しているからだ。そのような前提を共有せず、寧ろ積極的に人間の幸福を破壊し、一般に「善」と看做されている諸価値の蹂躙や毀損に異様な情熱を示す性向は、純然たる「悪徳」の特徴である。作者によって次々に明かされる斉茂の過去の行状は、何れも他者に対する殆ど無益とさえ思える献身的な悪意に貫かれている。個人的な好悪を超越して、彼は只管「悪徳」の実現に向かって忠勤を励んでいるように見える。アリストテレスが「幸福」や「最高善」を、それ自体で完結する至高の価値と看做して称揚したように、斉茂は人間的不幸に対する迫害や侮辱としての「悪徳」を、至高の価値と看做して熱烈に信奉しているのである。

 しかしながら、作者は松平斉茂という反社会的な「怪物」の不道徳な行状を活写することに創造の情熱の総てを投じている訳ではない。彼は一種の不吉な実験のように、斉茂という「怪物」を重篤な病患へ追い込み、無力化し、純然たる「認識」の主体へ還元する。

 斎子の目の中に恐れがない。これが斉茂を絶望させた。憐れみもない。斎子は単純に親切でしていることである。今まで父の傍で家事を見てきたのも、結婚しないできたのも、決して犠牲のつもりではない。好きでしていることだ。斎子のその親身な「御気分はいい」の中に、斉茂はこれらの感情を見た。やりきれない発見である。向うへ行ってくれというしるしに目を閉じた。(「怪物」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 pp.192-193)

 この叙述は斉茂の「悪徳」に関するもう一つの根本的な省察を示唆している。強いられた訳でもなく、自らの主体的な願望に基づいて、娘が身辺の世話を焼いてくれることは、一般的に病身の父親にとっては紛れもない「幸福」である。しかし、斉茂は恐らく他人の主体的な自由や意志を忌み嫌っている。彼が他人の幸福を破壊し、不可解な惨事の裡へ陥れることに固執するのは、それが人々の主体的自由を瓦解させる結果に帰着するからである。言い換えれば、斉茂の「悪徳」に対する度し難い欲望の源泉は、他者の自由を剥奪し、徹底的に支配し、所有することへの欲望の裡に存するのだ。こうした見地から眺める限り、松平斉茂という人物は一個の明瞭なサディストである。単に他人の苦痛を歓ぶことだけがサディズムの本質的な定義であるとは言えない。サディストにとって重要なのは、他者の主体性や自由や尊厳を壊滅させ、人間を一個の物質に還元することである。だからこそ、斉茂は斎子の「目の中に恐れがない」という発見に、支配者としての自己の無力を実感して絶望するのである。自己に対する他者の恐怖は、自己の権威や支配力の有効性に関する最も即物的な明証である。寧ろ斉茂の立場からすれば、斎子の献身的な看護や奉仕は「強いられた不本意な犠牲」であることが一番望ましい。不本意であるにも拘らず、完璧な隷属と献身を選択する以外に途がないという状況こそ、支配が完璧であることの明瞭な証拠となるからである。

 斉茂は他者を一個の無力な物質に置き換えるサディズムの欲望を携えて、これまで悪逆非道の限りを尽くしてきたのだが、皮肉なことに、重篤な病身へ転じた為に彼自身が、一個の無力な物質への変貌を余儀なくされている。こうした逆説を描くことが「怪物」という短篇の芸術的眼目であるように思われる。口を利くことも、四肢を動かすことも儘ならない状態では、子供の無邪気な悪戯にさえ抗う術がないのである。

 斎子は黙っていた。黙っているのが非難のしるしであって、すでに彼女は父を看病されるための愛着のある人形として扱っていたのだが、こういう言葉をきくと、父にも聴く耳、見る眼が残っていることを考えた。父の耳、父の目は肉体とは別のところにあるようであった。それはむしろ、この世へひっそりと向けられている別の世界からの耳や目のようであった。その別世界へ何事が聴かれようと、この世の恥にはならないのだった。この耳、この目の前でだけ、人は無恥厚顔にも有りのままにも振舞うことができるであろう。(「怪物」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 p.200)

 他者を人形の如く玩弄することが生きる歓びの枢要を成してきた斉茂が、病患の為に「看護されるための愛着のある人形」として処遇される。斉茂は最後の力を振り絞って娘の不幸を実現させるべく浅ましく奮起するが、所期の効果を挙げず、彼の弱体化したサディズムは敗北を喫する。無論、これは単純な因果応報の物語ではない。作者の冷徹な眼力は、皮肉な事態の推移を詳細に描き出すばかりである。