サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 14

 厚かましく不敵であること、それは往々にして集団の調和を擾す悪しき性質であると目されるものだが、どんな悪徳も、適切な分量と用法を守れば思わぬ画期的な効能を発揮することがあるのは、経験的に知られた地上の真理である。椿の豪胆な自己顕示は、辰彦の儀礼的な仮面の縁を僅かに欠けさせるくらいの威力は実地に示した。並外れた格式と巨大な実績を誇る名流の企業であれば、大袈裟な演技で一か八かの博打に踏み切る血気盛んな志望者も珍しくないだろうが、高踏の社風ゆえに地味な成果を強いられている衰燈舎のような零細出版社の門戸を、驚嘆すべき図太さで抉じ開けようと試みる若者は実に稀な存在だった。
 上司に向かってどのように説明すれば良いだろうかと、辰彦は密かに頭を悩ませながら、日々の業務に邁進していた。彼の愛する衰燈舎は、特段の人手不足に苛まれている訳ではなく、そもそも多少の繁忙は珍重して受け容れねばならないくらい、貧困な所帯であった。どんな業種でも、事業の劇的な拡張が見込めないときに高い費用を投じて新たな社員を雇おうとは考えないものであるし、少し風向きが変われば一挙に経営の難渋する危険な局面に陥りかねない痩せ衰えた肉体の企業に、素性の知れない若者を推挙するのは容易なことではなかった。とはいえ、あれほどの積極的な情熱を衰燈舎に向かって示してみせてくれる若い女の存在は確かに稀有だ。このまま看過するのは聊か勿体ない気もする。どんな商売であっても、一番手に入れ難いのは、本物の意欲を漲らせた新規の人材であることは明白なのだから。
 しかし、そもそも本当に、彼女の熱意が真摯で純一なものであるのか、その証拠を示せと言われれば、咄嗟に辰彦の舌先も巧く回るとは思えなかった。読書が好きだというだけでは、敢て衰燈舎を熱烈に志望する理由には足りない。読書が好きな人間は世間に掃いて捨てるほど転がっているし、一概に読書好きと言っても、その趣味嗜好が衰燈舎の社風と合致する例は稀である。大体、本を読むことと、本を作ることとの間には千里の径庭が広がっている。実際、光り輝く大衆のアイドルであることと、アイドルの熱烈なファンであることは、聊かも類似していないではないか。
 差し当たり自分の一存では決めかねる話なので、辰彦は編輯部長の荒城に相談を持ち掛けることにした。荒城は五十代半ばの、饒多な灰白色の毛髪を律儀に撫でつけた男で、その口許は何時も神経質な寡黙に縫い合わされていた。三十代の頃までは、日暮里の地味なレストランにコックとして勤めていたという噂を聞いた覚えがあるが、辰彦自身は本人にその風聞の真偽を尋ねてみたことはなかった。手の甲に大きな切傷の古びた痕跡が残っているのは、往時の職業的な過失の片鱗であるかも知れない。しかし、銀縁の眼鏡を掛けて、いつも不満げに唇を引き結び、整理の行き届いたデスクを侵犯しようと新たに押し寄せてくる様々な紙片と用事の群れを呪詛しているように見える荒城の風貌と手の甲の古傷の取り合わせは、もっと陰惨な過去の履歴を妄想したくなる気分を、辰彦の内面に醸した。
 昼下がりの閑散としたオフィスで(営業部員たちは軒並み出払っているのだ)莨を吸いに立った荒城の巾広な背中を追って、辰彦は椅子から静かに立ち上がった。廊下の衝き当たり、採光の好い黄ばんだ喫煙室には幸い、荒城の他に客がいなかった。扉を引いて入ると、壁際に凭れてハイライトを吹かす荒城の鋭い一瞥と出逢った。彼は頑固な紙巻派で、加熱式の莨を取り出す辰彦の仕種を冷ややかに見凝めていた。
「何か用事か」
 煙の代わりに吐かれた単語は妙に明瞭な響きを伴っていた。尾行を悟って内心身構えていたのだろうか。灰色と紺青を混ぜたような高価なスーツ(尤も、荒城は「背広」という言い方を好んでいた)を纏って、頑丈な胸板をワイシャツの向うに潜めた荒城の問い掛けは、此度に限らず、普段から剣呑な空気を帯びている。
「御相談がありまして」
 辰彦は椿に関する一連の経緯を説明した。廻りくどい説明は嫌われるので、要点を鮮明に述べつつ、一蹴されないように後から補足を塗り重ねる。荒城は時々鼻の頭に皺を寄せて、むず痒いような表情で紫煙を吐いた。太い眉毛の中にも数条の白線が混じって見える。
「公私混同じゃねえだろうな、お前」
 低い声音が遠い地鳴りのように喫煙室を充たした。辰彦は慌てて首を振った。
「生憎、私に不倫の願望はありません」
「余計な揉め事に繋がるんじゃ、迷惑なんだよ。大体、厚かましい小娘じゃねえか」
 荒城が、大英図書館閉架に眠っている古書の如く頑迷な男であることを今更想い出しながらも、辰彦は迅速な撤退を自らに禁じた。
「その厚かましさを、私は評価しているんです」
「物好きだな」
「こんなに熱心に入社を志望する若者なんて、滅多にいませんよ」
「だから疑ぐってるんじゃねえか」
 荒城の瞳孔が窄まって、辰彦は磔刑に処されたような居心地の悪さを感じた。