サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 15

 衰燈舎は、新常盤橋に程近いビル街の一隅に、置き忘れた帽子のようにひっそりと間借りしていた。その仮寓の社屋は年季の入った汚れ物で、色褪せた混凝土の壁には年月と風雨の痕跡が色濃かった。椿は緊張した面持ちで、待ち合わせの時刻より一時間も早く、大手町の駅に着いて蒸暑い路上へ雨後の筍のように飛び出した。
 川崎辰彦に直談判を試みてから、既に半月が経っていた。その間に気候はぐんぐん革まって春の陽気が街衢を埃っぽく覆うようになった。昼時のオフィス街には、如何にも御仕着せに見える暗色のスーツを纏った幼々しい男女の群れがちらほらと垣間見えた。自分も来年には、ああいう世慣れない勤人の制服を着込んで来る日も来る日も電車に揺られるのだろうか。混み合うカフェの片隅に潜り込み、冷たいカフェオレをストローで吸引しながら、椿は取り留めのない妄想に耽った。鞄の中には「燃えつきた地図」が入っていた。しかし、彼女は新潮文庫の痩せた背に指を触れようとはしなかった。どうせ頭の中が混乱して、安部公房のスタイリッシュな比喩の連鎖に無様に引き離されるのが落ちだ。殊更に紙上の異界に旅立たずとも、彼女の人生の行く手には本物の異界が待ち受けている筈だった。編輯部長との面談、という思わぬ具体的な好機を、川崎辰彦が本気で用意してくれるとは考えていなかったので、良い意味で裏切られた期待が、今は過熱した緊張に転じていた。
 時間が迫り、彼女は返却棚に汗ばんだ空のグラスを安置して、再び春の路上へ踏み込んだ。十三時半の約束だった。昼休みの過ぎたオフィス街は眼に見えて人影が減った。椿は時々片目を瞑りながら、頭の中に思い浮かべた曖昧な地図を頼りに、衰燈舎の入居する古びたビルへ向かった。街路樹とビルの織り成す翳りが、陰気な正面玄関に重なっていた。振り仰ぐと、木洩れ陽の破片が虹彩の傍で静かに炸裂した。
 仄かに黴臭い廊下を歩いて、誰もいないエレベーターで三階へ上がった。衰燈舎はビルの三階に編輯部、二階に営業部の事務所を置いているらしい。灰色の絨毯が敷き詰められた廊下は、ヒールで歩いても物音一つ立たなかった。不意に現れた開け放しの戸口の脇に「衰燈舎編輯部」の表札が見えた。喉の調子を整えてから、椿は凛とした声で御免下さいと言った。一度目は応えがなかった。もう一度、腹筋を意識しながら呼び掛けると、若い女性が一人、栗鼠のような瞳を輝かせて俄かにドアの影から顔を出した。
「高邑椿と申します」
「タカムラさん? ああ、川崎のお客さんですね」
 若いとはいえ、椿よりは六つほど年上に感じられる女性は、口許にも栗鼠に代表される齧歯類の傾向を湛えていた。来客に応対するには最適な愛想の好さが身に着いている。椿は導かれるがままに、別室へ案内された。衝立で仕切られた室内は見通せず、川崎の姿は探せなかった。見当たらないことに一抹の不安と失望を覚えながら、しかし今更引き返せる途ではない。一旦姿を消した齧歯類の傾向を備えた女性が、御盆に載せた冷たい麦茶を立派な卓子に置いて、丁寧な御辞儀を残して扉の向こうへ去った。静かな部屋だった。密封されたように、戸外の騒音は隔てられていた。
「御待たせしました」
 入ってきた中年の男性は、頗る強面だった。灰白色の髪を綺麗に整えて、如何にも頑健な顎門を怒らせて、角度の浅い会釈をした。椿は慌てて立ち上がり、男性の倍以上に深い御辞儀をして、早口に名乗り、心臓の不安定な拍動を実感した。
「随分と当社の事業に御関心をお持ちのようで」
 温もりのある情緒的な質感を欠いた声が、部屋の中の空気をほんの少しだけ揺さ振った。咄嗟に何と答えて良いか分からなかった。別に皮肉な調子で言われた訳でもないのに、その声音には砂利のような冷たさが混じっていた。毅然と面を上げながら、椿は辰彦のことを意識の一隅で瞬時に考えた。何処にいるのだろうか。こんな藪から棒に、大物を登場させるのは聊か配慮を欠いた仕打ちではないか。緩衝材となるべき存在が用意されて然るべきではないか。そんなことを思ったが、秘められた不満に手を差し伸べてくれる人物は、その局面に居合わせなかった。齧歯類の要素を帯びた女性も、川崎辰彦もいなかった。
「はい。編輯の仕事に就きたいと考え、色々と調べるうちに、御社の事業を知りました」
「衰燈舎という社名に、不吉な印象は享けませんでしたか」
 荒城と名乗った男の口振りには、粉糖ほどの諧謔も塗されていなかったが、恐らくその発言は椿の硬直を和らげる為に辛うじて投じられた、なけなしの優しさであるようにも思われた。
「いいえ。洒落た名前だと思います」
「どの辺りが?」
「衰えるという漢字を社名に採用するには、固有の哲学が要ると思います」
 荒城の銀縁の眼鏡に、古ぼけた蛍光燈の片鱗が触れて強く閃いた。頑丈に結ばれた血色の悪い唇が、極めて微細な動きを示した。口角がマイクロメートル単位で僅かに上向いたように思われたのは、光学的錯覚に過ぎなかったかも知れない。