サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 18

 否が応でも、川崎辰彦の仕事は増えた。椿と最初にコンタクトを取り、尚且つ荒城に掛け合って面談の場を誂えたのが辰彦の仕業であることは周知の事実だったから、椿の世話を引き受けるのも辰彦であるべきだというのが、社内の暗黙の了解だった。それを受け容れない理由もなかった。辰彦は忙しい編輯の仕事の合間に、どうしても孤立しがちな椿の面倒を見て、荒城から無責任な野郎だと叱られないように気を配る必要があった。面談の後の喫煙所で、彼は荒城から直に、来年の春が来るまでには椿を少しでも使い出のある人材に鍛え上げるよう厳命されたのだ。場を取り持った以上、それは抗い難い命令だった。日々の負担が増すことは事実だったが、それが不愉快だという訳でもなかった。
 椿自身は周囲の偏見や忌避や好奇や、或いは半ば妄想に等しい種々の風聞やらを一向に意に介さずにいた。だから、彼女自身の頑強な精神を殊更にケアする必要は稀薄だったが、余りに秘められた陰湿な思惑を真に受けないのも、周囲の人間からすれば業腹だった。厭味の通じない相手に、その鈍感さを咎めたくなるのは一般的な人情である。だから、辰彦は両者の間に入って、疎通しない意思を取引するブローカーのような役目を担わなければならなかった。彼は荒城の名を随所で拝借して、部長の評価なのだから彼女は会社に必要な人材なのだ、採用が決まったからには少しでも使えるように育てるしかないのだ、仕事は選り好みさせないから、どうか協力してもらいたいという趣旨の言葉を方々で吐いて回った。
「あんたが余計なことをするから、ああいう訳の分からない女の子が潜り込むことになったんでしょう」
 装幀係を取り仕切る室原香夏子むろはらかなこは、椿に対する不満を隠そうともしない右派の急先鋒だった。御年四十一歳の独身である。辰彦は香夏子が余り得意ではなかったが、他人への好悪を露わにせず固定もしないことが彼の処世訓であったから、苦手だという感覚を認めること自体、彼にとっては内面的な敗北を意味していた。香夏子は露骨な敵意と苛立ちを突きつける為に、頻繁に辰彦を呼び出した。捗らない装幀のスケジュールさえ、椿という余所者を招き入れた辰彦の軽率な判断に責めを帰すのが、香夏子の大人げない遣口だった。呼び付けられても、辰彦の側では同じような言い訳を繰り返す以外に術がない。椿が内定者として夏季休業の期間をインターンに充てるのは自然な成り行きであったし、インターンの学生を受け容れる体制の整っていない会社で、彼女の存在が浮き上がってしまうのも必然的な帰結だった。その現実を理解した上で、ぐっと堪えるという成熟した振舞いに屈辱を覚えるのが、香夏子の幼い欠点であった。
「彼女の雇用は、会社として正式に決定したことなんですよ」
 余り下手に出ても権高な勢いを増長させるだけだと心得ている辰彦は、時に毅然たる口調で香夏子の苦情を腕尽くで抑えに掛かった。無論、先方はそんな硬質な理窟に大人しく論破されるような柔弱とは縁がない。一層依怙地になって、辰彦の顔を睨みつける。
「あんたのガードが甘かったのよ。若い女の子に甘い夢を見させたんでしょう。気に入ったの?」
「彼女の熱意は評価に値すると思いますよ。別にこれは依怙贔屓じゃありません」
「公正な評価だってこと? 誰がその公平さを保証するのよ」
「決まってるじゃないですか。荒城部長ですよ」
「あんたが口添えしたんでしょう」
「私の口添えだけで切り替わるほど、部長の判断は軽率なものではありません」
 傍で二人の舌戦に耳を傾けながら、パソコンの画面に向かって装幀の図案を品定めしていた鏑木という男性社員が、小さく口笛を吹いた。
「辰彦、なかなか弁が立つじゃないか。荒城部長の御判断に逆らう奴なんか、この部屋にはいないもんな」
「鏑木さん、黙っててくれる?」
 香夏子の鋭利な一瞥に大袈裟に首を竦めて、鏑木は再び画面に向き直った。
「どうしても納得が行かないのなら、荒城部長に直に掛け合って頂くほかありません」
「卑怯な言種ね。あんたは跣足で逃げ出す積り?」
「逃げ出したりしませんよ。一つ屋根の下で共に働く同僚なんですから」
 口論が済んだ後も収まらずに延々と愚痴を並べる香夏子を無視して、辰彦は自席に戻った。明日印刷に廻す予定の原稿をチェックしなければならないのに、一向に進捗していない。椿の世話と、香夏子のような連中の苦情に附き合うだけで、貴重な勤務時間は粉糖のように瞬く間に溶けてしまう。自分だけが、こんな厄介な役回りを引き受けるのは不当な処遇であるようにも思われた。香夏子は辰彦が椿を引き入れたと言いたがるが、彼の立場からすれば、大学の恩師に頼まれて軽い気持ちで面談を引き受けたのが始まりであり、義理を欠くことが一般に褒められた振舞いではない以上、彼が総ての禍事の出発点であるかのように糾弾されるのは腹立たしい話であった。そもそも、彼女を雇用したのは辰彦ではなく、人事権を行使したのは飽く迄も部長の荒城である。荒城が取締役に上奏して承認を得た結果である。文句があるなら荒城に言ってくれという科白は、別に喧嘩を売っているのではなく、辰彦の素直な心境から導かれた答えに他ならなかった。