サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 25

 小説だって現実だ。椿の断固たる確信に支えられた言葉は、辰彦のスマートな理性を聊か混乱させた。実際、そのように考えることが出来なければ、衰燈舎が手掛けている類の、とてもマイナーで癖の強い外国の小説を翻訳して高価な造本で国内に頒布するという重苦しい事業などは続けられるものではない。社長の森実は事ある毎に「百年先の未来に投資する事業だ」と崇高な理想に燃えた科白を吐くことで知られていたが、確かに小説が恣意的な虚構に過ぎないのならば、百年先の未来のことなんて想い描けないだろう。丈夫な紙を用いて装幀に潤沢な経費を宛がうのも、社長の考えでは、百年間受け継がれるべき書籍を自分たちは造っているのだという自負の証明に他ならなかった。その意味では、椿の豪胆な科白は確かに衰燈舎の創業の精神に相応しいものであると言えなくもなかった。
 辰彦は幼い頃から読書に親しみ、小説家になることに素朴な憧れを懐いた時期もあったが、数多の文豪の遺した傑作を読み漁っても猶、手ずから独創的な小説を生み出してやろうと意気軒昂たる情熱を燃え立たせるには、性格として温和で沈着であり過ぎた。どうしても良識的な理性が優ってしまう憾みがあった。家の書斎に籠って来る日も来る日も真白な原稿用紙や空白だけが無限にスクロールされる電子の画面と対峙し続ける生活の孤独に、胸を張って堪えられる自信もなかった。泥臭く、自分の頼りない力だけを信じて、何も存在しない空虚な曠野に、か細い水路を掘削していくような寂寥を引き受けるには、並外れた覚悟が要るだろう。そのとき、通俗的な良識は却って足枷となるだろう。安心や安全を求める素朴な慣習は勇気を減殺するだろう。
 それでも未練は絶ち切れずに、辰彦は書籍に関わる仕事を希望して、辛うじて叶えられた。華やかな大手の出版社には見向きもされず、それでも一縷の望みを繋いで努力を重ねるうちに衰燈舎と巡り逢った。運命と言えば確かに運命だ。そして人並の社会人らしく、人間関係の軋轢や覚えられない仕事や、一般的な苦労に揉まれて喘ぎながら、何とか逃げ出さずに年月を重ね、妻子を養えるくらいの収入を保って今日の現実に漂着している。先ずは一般的な成熟の過程を無事に辿り遂せたと言えるだろう。勿論、走路は未だ終着駅には到っていないので、これまでのギリギリの成功が終生の安泰を約束する訳ではないのだが、とりあえずの及第点には達していると言えるだろう。その事実は、仄かな誇らしさを辰彦の魂に象嵌していた。
 自分が何故椿に奇妙な肩入れをするのか、金曜日のざわざわとしたカフェで埒の明かない議論を繰り返しながら、少しずつ辰彦は悟り始めていた。彼女の姿は、昔の自分自身の誇張された肖像画のようだった。当時の自分よりも遥かに傲慢で、あからさまで、勇敢で、抑えられない情熱に衝き動かされる一つの若い魂。未成熟であるということは、道理を弁えないということだ。自分は道理に守られて一応の幸福を手に入れたが、この若い女の子は未だ何も獲得していない。だからこそ、露骨に餓えることが出来る。それは眩しい光景に見えた。彼女は守りに入る理由を持ち合わせていないので、こうして総身で痛みを感じたり、創傷に塗れたりすることが出来るのだ。羨望ではない、複雑に屈折した嫉妬が、辰彦の内面を駆け回っていた。
「君は小説というもう一つの現実に救われてきたのか」
 辰彦は自分の声が普段の自分とは異なる場所から濫れたもののように感じた。日頃は抑圧されている古ぼけた鍵付きの抽斗から、日附の掠れた手紙が不意に転がり出たような感覚が生まれた。温くなった珈琲の残りを啜っていた椿の眼に奇怪な光の粒が宿った。上眼遣いに睨まれて、辰彦は頸筋が粟立つのを感じた。この子の、猛禽のような瞳。餓えた禽獣の眼差し。懐かしいと思うのは誇張された感想だ。当時の自分は、こんな風に露骨な飢渇を生きてはいなかった。もっと社会の慣わしや理に従順で、牙を他人の視野に映り込ませることに頗る臆病だった。だから、椿のことが気懸りになるのだろうか。この野獣を何とか生き永らえさせてやりたいと思ってしまうのだろうか。
「救われたのかどうか分からないけど」
 猛禽の瞳をほんの少しだけ柔らげて、訥々とした口調で、椿は言った。
「それがなければ、この世界はとても退屈だと思う。たった一つしかない世界なんて、つまんなくないですか」
 確かに「つまんない」かも知れなかった。勿論、人間は複数の人生を並べて自在に行き来する能力を持たない。何かを選べば、選ばれなかった宿命は棺に抛り込まれ、徹底的に焼き払われる。昔から、そういう慣例だ。だから、有り得るかも知れない別様の現実が耀かずにいないのだろう。そういう別様の現実を知らしめる為に出版という稼業が存在するならば、それは確かに尊いことだろう。
「君は世界を愉しくしたいのか」
 辰彦の問い掛けに、椿は久方振りとも思える明るい笑顔を泛べた。
「そりゃそうですよ。世界が幾つもあるのなら、絶望しなくていいじゃないですか」