サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 26

 毎週金曜日の夫の帰りが遅いことを、梨帆は何時しか気に病むようになっていた。固より、公務員の如く十七時の鐘と共に終業するような性質の勤め先ではないが、同僚と毎晩のように酒を酌み交わすタイプでもない。娘が生まれてからは特に、夫の飲み会の頻度は眼に見えて下がって、年に一度の忘年会の他は、散発的な歓送迎会くらいしかなかった。そういう年来の習慣が俄かに崩れ出したことを、梨帆は敏感に悟った。
 泥酔という訳ではないが、週によっては二十三時を回って玄関の扉を軋ませる夫の背広は、概ね微醺を帯びていた。その香りを露骨に指摘したことはない。それを声高に指摘するのは、開けてはいけない扉の鍵穴へ乱暴に鍵を挿し込むようなものだと思われた。それに玄関の扉を開けて居間へ入って来る夫の表情は常に奇妙な陰翳で覆われていた。何かしら指弾を浴びることを予期しているような、同時にその予期へ刃向かっているような、複雑で狷介な陰翳である。彼是と詮索されることを嫌がっているのだろうと、梨帆は勝手に判断していた。詳しく問い質すべきであるかも知れないが、育児で疲労した心身に鞭打って、夜更けの口論を勃発させるのは気が進まなかった。結婚して、もう六年が経つ。今更、恋愛の渦中にある若い女のように、相手の不審な行動を糾弾して嘆いたり喚いたりするのは馬鹿げているように感じた。口論の勢いで、漸く寝静まってくれた娘が起き出して泣き声を上げたらどうしようという生理的な恐怖も関わっていた。喧嘩に荒ぶる自分の心を鎮めながら、同時に年端の行かない娘を宥め賺して再び寝入らせるというのは拷問にも等しい苦行だ。
 来春に入社するインターンの学生の面倒を見ているという話は、以前何かの拍子に聴いた覚えがあった。しかし辰彦は、仕事の話を余り家庭に持ち込みたがらない性格である。言っても理解してもらえないと思っているのだろうか。子供が生まれる前は、必ずしもそうではなかった。元々学生時代からの附合で、苦難の就活の末に念願叶って出版社の内定を勝ち取った辰彦の横顔を、梨帆は常に隣で見凝めてきた。その当時は、色々仕事の苦労や歓びに就いて熱心に語って聞かせてくれた記憶がある。露骨に憔悴して、珍しく深酒の後遺症を引き摺って帰って来る夜もあった。仕事が落ち着いてからは、そういう無惨な醜態はめっきり見なくなった。特に娘が生まれてからは、仕事に関する悩みや愚痴の類を殆ど聞いた覚えがない。梨帆はその変化を、夫の人間的な成長の賜物だと素朴に信じ込んでいた。仮に、仕事の愚痴を吐瀉物のように夜の食卓へ撒き散らされたとしても、それを巧く受け止めてあげられる自信は持てない。愚痴を言いたくなる気持ちは決して、辰彦の専有物ではないのだ。お互いが自分の荷物を抱えることに必死で、他人の鞄にまで手を貸す余裕がない。全くの他人同士ならば、その余裕の欠如を気に病むこともないが、夫婦ゆえに相手の冷たさを恨まずにいられないのならば、結婚とは何て厄介な営みなのだろうか。親密であるべきだからこそ、関係の一隅に滲んだ空疎な間隙が際立って見える。元々遠いのが当たり前の間柄ならば、互いの間隙は寧ろ適切な距離として奨励されるだろう。
 年の瀬が迫っていた。辰彦が、今週の金曜日は忘年会で普段より遅くなると言い出した。その日は日曜日だった。日曜日の晩に、次の週末の飲み会の予定を告げて来るのは少し気忙しいように感じられた。そもそも、帰りが遅いのは今に始まったことじゃないだろうと梨帆は思ったが、口には出さなかった。躰の芯が痺れるように疲れていた。妊娠を機に仕事を辞めてから、彼女の内なる曜日の感覚は曖昧に掠れていた。カレンダーが意味を成さなくなっていた。本当に忘年会なのかと、厭味ったらしく尋ねてやりたい意地悪な気分も揺曳していたが、それを実際に口に出すことによって凍ってしまう現実があるのではないかという危惧が、その悪意に歯止めを掛けていた。何時頃になるの、と訊くと、一寸分からないという予測された返答が聞こえた。そのまま、辰彦は娘を連れて浴室へ消えた。水音と、姦しく躁いだ子供の声が入り混じって扉の向こうから聞こえた。テレビの画面はこの一週間の様々な出来事の総括に忙しかった。休日の夜の終わり、墓石のような静寂に浸された夜の帷。全身の筋肉が蒟蒻のように萎えてしまいそうな気分だった。梨帆は台所に立って夕食の洗い物を片附け始めた。平たい皿の底に広がったボロネーゼの汚れを擦っている間に、無性に虚しくなり、惨めな気分が抗い難く押し寄せた。彼女は自分が泣いていることに愕然とした。何故泣いているのか、定かには分からなかった。私は自分自身の気持ちすら見えなくなってしまったのだろうか。絶望的な失明だった。光を取り戻せるのか、酷く心許なかった。洗剤の泡が白く濁って眩しかった。水流を強めて、態と物音を大きくした。皿と茶碗が神経質に触れ合った。私は何故、こんなところで夢中で皿を洗っているのだろう。誰の為に? 何の為に? 家族の為だろうか? けれど、彼女の大切な家族は明らかに、浴室の扉の向こうよりも遥かに遠く隔たった場所で泣いたり笑ったりしているように感じられた。