サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 28

「椿ちゃんはどんな男性がタイプなの?」
 徐々に酔いの深まり始めた幸野が、仄かに舌足らずな声で尋ねた。若しも同じ質問を、年の離れた男性の社員が投げ掛けたら、直ちに淫猥なハラスメントの罪状を眉間に刻印されるだろう。それは奇妙な相対主義ではないだろうかと、グラスの縁に唇を宛がって束の間の沈黙を守りながら、椿は考えた。
「あんまり明確に、こういう人っていうのは、考えたことがないかも」
「でも、誰でも好い訳じゃないでしょう」
 幸野の言葉に、更織と瑞穂が声を上げて笑った。それじゃbitchじゃん、と瑞穂が複雑なニュアンスを帯びた口調と表情で言った。不意に躍り出たbitchという耳障りな言葉は、椿の鼓膜に新鮮な震えを及ぼした。日本語に置き換えれば、売女とか、阿婆擦れとか、尻軽とか、その類の表現になるだろう。異性に関する趣味が明瞭な典型を持っていないと、人間は残らずbitchという不名誉な範疇の中に押し込まれてしまうのだろうか。だが、そんなに明瞭に、自分の好きなものや人を語り尽くせるのは標準的な能力だろうか? 出逢ってみなければ分からない幸福というものも、恐らく存在する筈だ。
「男なら誰でも好いな、あたし」
 先ほどから、この五年ほど誰とも附き合っていないという悲痛な訴えを嬉しそうに躁いで語り続けていた更織が、勢いに任せて下品な科白を吐いた。止めてよー、と態とらしく語尾を伸ばして、幸野が更織の肩を叩いた。笑っている更織の唇には締まりがなかった。辰彦は椿の反対側に座った装幀係の鏑木と話し込んでいて、女性陣の下卑た会話からは遠ざかっていた。椿と辰彦との間には見えない衝立が置かれて、迂闊に踏み込めば良識の破綻へ追い込まれかねない歓談からの隔離を、彼は意図的に維持しているように思われた。それが椿には少し不満だった。
男旱おとこひでりって奴じゃない?」
 矢継ぎ早に交わされる生々しい言葉の応酬に紛れて、耳慣れない古風な俗語が椿の頬を掠めた。飢渇に譬えられた性慾を、椿は途方もなく不衛生な観念のように受け止めた。勿論、純潔な少女を騙る積りはない。一般的な基準に照らして、椿が人より清純な女性であると言える根拠は皆無だった。高校入学以来の遍歴を思い返せば、自分にも若干bitchの素養が備わっている気がした。けれど、そこまで赤裸々な挿話をこの酒席で開示する気分にはなれなかった。余計な風評は、少しずつ改善してきた椿の社会的立場(そんな大仰なものを気にする年齢になったのだろうか)に、雷鳴のような一撃を浴びせ、損壊させてしまうだろう。下半身の乱倫な事情を人前で洩らして猶も体面の傷つかない立場というのは、滅多なことでは手に入らないし、きっと時代の良識も、そのような大胆な露悪趣味を容認しないだろう。
 更織の男旱に関する自虐的で露骨な熱弁(とはいえ、実際に重度の旱天続きゆえに具体的なエピソードが語られる訳ではなかった。彼女は想い出の欠如を嘆きながら、その嘆きを享楽していたのだ)が一区切りつくと、今度は瑞穂がケープタウン大学時代に知り合って関係を持ったアフリカーナーの若者との記憶を語り始めた。更織のような自虐的諧謔の代わりに、聊か冷淡でスノッブな口調が椿の鼓膜にささくれを生んだ。彼女は明らかに、自分が特権的な恋の想い出を語っていることに虚栄の歓びを感じていた。現代の平均的な日本人の中で、一体彼女以外に誰が、真夏のケープタウンアフリカーンス語を話すオランダ系の青年と情熱的な関係を結び得るだろう? その特殊な経験が、如何に自身の創造的な業務と密接に結び付いているかということを、瑞穂は然り気ない口調で幾度も強調した。編輯部企画室という会社の花形部署に、最年少の年齢で配属された自分への堅固な矜持が、その口調の端々に閃いていた。確かに彼女の立場と経歴は憧憬に値すると椿は思った。けれども、彼女がケープタウンで味わった暫時の情熱的な恋愛の挿話は、退屈だった。何が退屈だったのだろう。椿は密かに自分の過去の恋愛を振り返ってみた。どれもこれも、退屈な想い出であることには間違いがなかった。過ぎ去ってしまえば、どれも無価値なガラクタに思えた。武岡亘祐の掠れた面影が、記憶の眼裏を過った。あれから、早くも一年半ほどの歳月が流れたのだ。彼は今頃、どうしているだろうか。迅速な入籍に帰結しただろうか。それともまた、他の女に心を移して、遽しく酷薄な乗り換えに赴いているだろうか。何れにせよ、濃密な関心を寄せることは不可能に近かった。知らぬ間に人生の景色が変わってしまったのだ。かつて鮮やかに瞳孔を射貫いた美しい風景が、すっかり色褪せて荒廃してしまったのだ。遠くの席から、辰彦の名を呼ぶ乱暴な声が響いた。鼓膜を撃たれて他愛のない思索から醒めた椿の眼差しの先で、ペールエールのグラスを捧げ持った辰彦が腰を浮かしていた。室原香夏子の召喚状が発せられたのだ。酒精の染み込んだ赤ら顔で何度も辰彦の名を無躾に呼び続ける香夏子の泥濘のような瞳を、椿は人影の隙間から射るように見据えて確かめた。