私が生を享けた桐原家は、千葉県千葉市花見川区に居を構える古くからの地主の家柄であった。区域を南北に流れる花見川の滔々たる水面の輝きは、転生した私の眼にも眩しく映り込んだ。広々とした敷地は、私の生みの親が自力で勝ち得たものではなく、累代の遺産を馬鹿馬鹿しいほど高額な相続税を支払いながら受け継いできた桐原一族の厖大なる僥倖の余禄に与っただけの話で、偶然にもこの土地へ暮らしていた祖先の幸運が、遥かなる時空を隔てて、見ず知らずの末裔にまで単純に波及しているのである。最初に土地を切り拓き、農地を開墾して水路を引いた人々の並々ならぬ労苦は尊敬に値するが、私の父親である
桐原家の土地は花見川の西側に沿って飛び飛びに広がっており、矢張り数百年の星霜を閲するうちには折々の経済的な事情に強いられて、所領の切り売りやら行政による収用やらといった世知辛い事件にも巻き込まれてしまうものなのであろう。だが、買えば凄まじい金額を対価として支払わねばならない「土地」を、或る家系の末端に列なる形で生まれ落ちたというだけのアプリオリな理由だけで殆ど自動的に手に入れられ、我が物顔で扱える身分というのは稀有な役得であり、恵まれた境遇にあると言わねばならない。固定資産税やら相続税やら贈与税やら、彼是と尤もらしい名目で役人に銭金を毟られる立場は確かに気苦労の堪えぬ厄介な運命とも言い得るが、損得勘定というのは往々にして中庸へ落ち着くように神の手で操られているものなのである。何かを得る代わりに何かを失うという地上の摂理は、私たちの五本の指先が一度に掴める量を物理的な法則によって制限されている以上、免かれ得ない厳正なる鉄の掟と捉えて素直に諦めるより仕方ない。
累代の地主の家柄に生まれついたことが、まさか生涯の方針を決した訳でもあるまいが、桐原惺は私立の大学を出ると不動産売買の世界へ潜り込み、それからは年がら年中、暗く陰気な色合いの背広に袖を通しっ放しで過ごし、軈て銀行の事務員と付き合い出して所帯を持った。籍を入れて程無く、祖父の名義であった瑞穂町の土地を譲り受けて、知り合いの施工会社へ見積もりを値切りに値切って、若造には相応しくない立派な三階建ての一軒家を拵えた。私は彼の長子として産み落とされ、祖父にとっては大事な初孫であったから殊の外手厚い待遇の中で揺籃に寝かされ、何ら不自由な想いを味わうこともなく着々と肥り、見る見る背丈を伸ばした。無論、不自由はないとは言っても、前述した通りに私は赤児の自分からはっきりとした知能を蓄えていたので、柔らかく無防備な幼子の体裁を保ちつつ生きるのは不便とも不本意とも言えた。
私が生まれた当時、父は未だ二十代後半の若さで、競争の厳しい不動産屋の末席に列なる身分でもあったから高い給与を望むべくもなく、従って我が家の台所事情は特別に明るく華やかなものではなかった。然し、終の栖を購うのに土地の代金を払わなくて済んだ訳だから、当然のことながら月々の銀行への債務返済の負担は頗る軽く、その分の浮いた銭金で人並みの贅沢を愉しむくらいは余裕綽々の話であった。初めての息子を可愛がり、どんな品物でも買い与える為に必要な資金の確保にも難渋しなかった。借家に住まうよりも割安な代価で立派な戸建ての持ち家へ暮らせるという恵まれた条件だけが、その理由ではない。先祖代々の土地を分け合って暮らす桐原家の一族は、花見川の西岸にうじゃうじゃと雑草のように密集して暮らしている。近隣の親族が、桐原家当主である矍鑠たる祖父を筆頭に入れ代わり立ち代わり、搗き立ての温かい餅を想起させる私の愛くるしい顔を眺めに陸続と訪れる環境ゆえに、桐原惺の一家は、息子の為の小遣いや贈り物の類には全く不自由せずに済んだのである。高価な肌着、高価な玩具、高価な寝具、高価な涎掛け、高価な粉ミルクに高価な紙オムツ、どれでも父母が欲しがる素振りさえ見せれば、気前の良い年配の親戚たちは幾らでも財布の紐を緩め、クレジットカードの伝票へ颯爽とボールペンを滑らせて、誇らしげに桐原の家名を書き入れることに躊躇いを示さなかった。実際、花見川の西岸に点々と建ち並ぶ豪壮な民家の多くは、桐原家の血筋を受け継いだ人々によって所有されていた。明治の末年に浪花町の家で産婆の手を借りて現世へ抛り出された祖父の
私の母は元々、地方銀行に勤める小綺麗な風貌の事務員であった。旧姓は朝河、婚姻した後は
銀行員であった母と、不動産屋の社員であった父との間に、誰かの崇高な導きで稲妻が走り、火花が散り、その性的な結合の末に五体満足の赤児が生まれた。そこまでの筋書きには何の支障も瑕疵もない。ただ問題は、その愛らしい赤児の中身が奇抜な来歴を引き摺っていたという、その一点に関わっていた。見た目は無垢で純粋で世間知らずの赤ん坊であるにも拘らず、その柔らかな膚の内側には奇怪な魂魄が予め準備されていたという驚くべき事実は、平凡な夫婦であった桐原家の長子とその夫人にとっては不幸な命運であったに違いない。並外れた野心を滾らせる訳でもなく、父祖から受け継いだ豊饒な資産のお零れに与ってのうのうと生きることに僥倖しか見出さずにいた桐原惺にとって、人生とは凡庸な幸福に肩まで浸かることと同義であった。生温い風呂に半身浴で何時までも堕落した時間を貪るように、彼は生きることの本質を平凡な枠組みの中で窮屈に己自身を縛り上げることだと決め付けて疑わなかったのだ。だから、その意味で、私という存在の出生は、その見掛けの上での幸福さとは裏腹に、注意深く埋められた巧妙なゲリラの地雷のように、潜行する不幸の塊としての危うさを備えていた。無論、私は幼子でありながら、つまり無造作に開け放った唇の縁から澄明な涎を延々と垂れ流したり、TPOを弁えずに己の内なる生理的欲求に指示されるままに排泄を繰り返したり、飲み過ぎたミルクを誰にも予測のつかぬタイミングで吐き戻したりする、穏やかなじゃじゃ馬の如き可憐な存在でありながらも、一端の知性は持ち合わせている訳で、しかもその知性を迂闊に表面化させては世間に怪しまれるということも、口舌の器官が未熟で物が言えない段階で学んで肝に銘じておいたので、私の千葉常重としての本性が早々に露顕してしまうという事態は、幸いにも回避することが出来た。平凡な幸福を愉しむことが人間の本懐であるという親譲りの有難い処世訓に従うならば、肉体と魂との間に奇怪な乖離を起こした赤児であるという事実を赤の他人に見抜かれることは、絶対に免かれるべき悲惨な事故であると言わねばならない。前世の記憶を引き摺っている、不可解な成熟を遂げた嬰児というイメージが、口さがない連中の耳目に触れた途端、この天網恢恢疎にして漏らさずの現代ウェブ社会においては如何なる悲劇と災厄が我が身を襲っても何ら奇異ではない。