朝帰りではなかった。それは端的な事実だった。午前一時を回り、日附変更線を跨いだ帰宅ではあったが、夜明けまで呑んだくれていた訳ではない。それは確かに、その通りだ。
娘の幼い寝息に耳を傾けながら、会社の付き合いとはいえ、野放図な夜遊びに耽って帰って来ない夫を待ち侘びるのも屈辱だったので、梨帆はさっさと眠ってしまおうと思って蒲団に潜っていた。居間の灯りも消して、一応ドアロックは掛けなかった。そこまで露骨な悪意を示すのは時期尚早であるという気がしていた。何か悪事の決定的な証拠を掴んだ訳ではないし、無意味な喧嘩に時間と体力を空費するのも嫌だった。底冷えのする夜だった。居間の暖房の余燼が、襖の隙間から二人きりの静かな寝間に忍び込んでいた。
眠ろうと思っているのに眠れない自分自身に梨帆は苛立った。夫の消息や安否が気懸りであるということは、普通の妻なら至極尤もな感情である筈なのに、尤もであると素直に思い切れない自分の立場が呪わしかった。彼女は何度も寝返りを打ち、気忙しい寂寥が胸の奥に兆すと、堪えられず上体を起こして闇の奥に耳を澄ました。娘の寝息だけが鼓膜をヴァイオリンの絃のように
時間の流れは途方もなく遅いように思われた。粘着質の速度で、それは梨帆の躰を取り巻いていた。何時しか彼女は眠ることを諦めていた。眠ろうと足掻けば足掻くほどに、自分の屈辱の密度が高まっていくように感じられた。屈辱に肥料を遣るのは馬鹿げている。自分自身を貶めるだけの行為だ。そう考える一方で、そうやって屈辱を拒む声高なプライド自体が、惨めであるような気もした。屈辱を拒まず、寧ろその泥濘の底に屈み込んで法外な泣き声を上げる自由だって存在するんじゃないのか。梨帆は考えることに疲労を覚えた。そのとき漸く、瞼の縁に睡魔の荷重が及び始めたような感覚があった。
鍵の回る耳障りな音、蝶番の軋む緩慢な音が楽譜のように列なって聞こえた。ドアが開き、恐らくは冬の深更の戸外に溜まった冷たい風が、閉ざされた廊下へ一挙に流れ込んだ。梨帆は息を殺し、しかし眠っている振りはしたくないと思った。居間の灯りが点き、鬱陶しい咳払いが静寂を傷つけた。襖が少しだけ開いた。
「ただいま」
「お帰り」
それだけだった。梨帆は自分の声が悴んだように冷たいことを知って、少し戸惑った。本当は戸惑う理由などなかった筈なのに、自分が当惑していることを知って感情が委縮した。内なる悪意と哀しみを、肩口に浮き上がった肌着の紐のように、相手の悟りかねない場所にちらりと晒してしまったことに、彼女は一瞬の悔恨を覚えた。しかし、辰彦は何も言わなかった。仄かな酒精の香りが、汗と混じって陰気な寝間へ零れただけだった。夫はコートとスーツを脱ぐ為に二階の部屋へ上がって行った。梨帆は黙って自分の呼吸を数えた。堪え難いほどに惨めで、八方塞がりの気分だった。厚手の毛布と蒲団に包まって、日附が改まっても寝付かれず、夫の帰らない寝間に幼子と二人で蟄居して、揚句の涯には無類の悲哀に覆われている。退屈な女の、退屈な人生の一場面であると言ってしまえば、それまでだ。確かに退屈な、在り来たりの不幸には違いない。いや、不幸と呼ぶには大袈裟な事件に過ぎない。忘年会で夫の帰りが遅くなった、それだけの話だ。にも拘らず、無性に遣る瀬なく息苦しくなるのは、彼女の本能が不確かな危機の片鱗を捉えていることの動かぬ証拠に他ならなかった。
浴室から水音が聞こえた。何時も注意しているのに、更衣室の扉を開け放したままにしているのだろう。大きくて無遠慮な水音が、幼子の豊かな眠りを妨げないか気遣わしい。酩酊に蝕まれた安手の理智が、きっと辰彦の脳髄の奥底で蠢いているのだ。穢れを洗い流した後で、彼は気兼ねもせずに自分の蒲団へ潜り込み、一年の労働を無事に卒えた幸福に涵って鼾を掻き鳴らすに違いない。その隣で慣れ親しんだ伴侶が密かに抱えている不透明な苦しみに、一瞥さえ呉れようとせずに。