サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 34

 夜明け前に眼が覚めた。起きた瞬間から、意識が隅々まで冴え渡っていた。早起きする度に感じる、ヒリヒリした躰の重さ、瞼の重さも感じない。寝静まった部屋の壁際に横たわったまま、耳を澄ませると、居間の時計が時を刻む規則的な音さえ明瞭に聴き取れた。
 妻子を起こさぬように忍び足で寝間に充てている畳敷きの部屋を出た。きっと何処の家でも、普段より気忙しい朝を迎えているだろう。新年の街並みの、あの呆けたような独特の閑寂は、もう何処にも見当たらないだろう。辰彦は顔を洗い、丁寧に歯を磨いた。空気が刃物のように冷たく凍えていた。それなのに、妙に関節の動きが軽やかで滑らかだった。待ち望んでいたのだと、彼は思った。仕事を? 確かに、嫌いな仕事ではないし、働くことが生きることと密接に結び付くようになって久しいのだから、長い休暇が却って奇妙な社会的飢渇を培うということは有り得る話だ。そう考え直して、彼は更衣室のドアを厳重に閉て切り、電動のシェーバーを顎の裏に宛がった。人間の頭は、自分の欲望に忠実なのだ。欲望に忠実なのは胃袋や性器だけではない。あらゆる感覚器、あらゆる神経細胞が揃いも揃って貪婪なのだ。だから、世界の姿は好みの形に切り抜かれ、好みの色合いで彩られる。
 余りに早く出勤するのも張り切っているようで恥ずかしく思われた。不幸な家庭を営んでいるのかと軽口の一つも叩かれそうだ。室原香夏子あたりが、その類の科白を吐く姿がありありと網膜に映じた。長過ぎる夏休みに倦んで新学期を待ち焦がれる活発な児童のように扱われるのは、自分の希望に即していない。それでも、家族の寝静まった家でずっと息を殺しているのも面倒だった。とりあえず、仕度を卒えて寒々しい戸外へ出た。風がないのが不幸中の幸いだった。外套の襟許を掻き合わせて、彼は人影の疎らな鋪道を歩いた。徐々に東天が仄かな明るみを滲ませつつあった。スーツを着た年配の男性が自転車に跨って彼の傍らを颯爽と通り過ぎた。視界の涯に、最寄りの駅舎の目映い光が濫れていた。
 会社の近くで珈琲でも呑もうと思いながら、彼は電車に揺られた。時刻が早いので、車内は空席に恵まれていた。座席に凭れて転寝し、不図瞼を開くと、車両は河に架かった鉄橋を渡っていて、車窓の彼方は一面に朱が差していた。これが鴇色の空かと、彼は咄嗟に思った。休暇中に読んだ古めかしい小説の一節に、そういう表現が含まれていたのを想い出したのだ。何か稀釈された顔料が空に零れたような色調だった。辰彦は欠伸を咬み殺した。幾つかの仕事の差し迫った締め切りが不意に意識を蹂躙して、覚醒の瞬間の爽快な感覚が、適度に穢されたような気がした。
 東京駅で、彼はカフェに入った。何の変哲もない、早起きのカフェで、彼は濛々と湯気の立つ珈琲を呑んだ。昔、岩手の盛岡へ旅行したとき、宮沢賢治に所縁のある可否館という静かな喫茶店を訪ねたことがあるのを、彼は思い出した。大学最後の長い休暇を使って、東北地方を周遊する旅に出たのだ。梨帆は宮沢賢治の熱心な愛好家で、グスコーブドリとかオツベルとかカムパネルラとか、そういう素性の知れない片仮名の響きを殊に偏愛していた。辰彦は唇の懐ろが火傷したように痺れるのを感じた。間違って咬んでしまったのだ。苛立つような痛みが、散漫な回想の時間を吹き散らした。その僅かな失錯は、何か食事をしていた訳でもない、ただ熱い珈琲を慎重に啜っていただけであるのに、唇の裏側を鋭い歯で損なってしまったという、奇妙で些細な失錯は、意図的なものであったかも知れない。防衛本能、何にでも本能という言葉を義歯のように嵌め込めば、それらしく粧えるものなのかも知れない。辰彦は腕時計の文字盤を見遣った。未だ、時間は充分に残されていた。そこで初めて高邑椿の顔が思い浮かんだ。彼は首を僅かに左右へ振った。無性に莨が吸いたくなったが、生憎、その店は完全なる禁煙を謳っていた。
 東京駅から会社まで黙って歩く。躰の芯は珈琲で火が点いたように温もった。信号待ちの人間の数が徐々に増えて、正月休みの終わりを実感させる。イーハトーブ、ジョバンニ、ゴーシュ、シグナルとシグナレス。辰彦は肩を竦めて長い横断歩道を渡った。梨帆は眠っていたのだろうか、と彼は思った。神経の過敏な彼女は、他人の動静に鋭く反応する。辰彦が早出のときも、必ず束の間目覚めて、行ってらっしゃいと呟くのが昔からの慣例だった。考えてみれば、そういう場面にもう随分出逢っていないような気がした。無論、曖昧な記憶の痕跡に過ぎず、明確にそうだと断定し得る根拠は頭の中に入っていなかった。玄関を飛び出して改札を駆け抜けた後に、書類鞄の無闇な軽さに冷やりとして立ち止まるような類の不安が、そのときの辰彦の呼吸を粗くした。梨帆の最近の言動に関する記憶が妙に蓄積していない、という考えが、例えば真っ赤に爛れた夕映えの空に突如として浮かび上がった怪奇な凶星のように、彼の脳裡を照らして甲高く笑った。