サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 36

 午後の仕事の間、辰彦は努めて荒城との不穏な会話の残像を眼裏から追い払い、淡々と熟すべき業務の数々に専念し続けた。荒城の側でも、特に深追いする素振りは見せなかった。所詮は他人事だと考えているのだろうか。面倒な人間関係の癒着に予防的な措置を講じるのは、荒城の職責を鑑みれば当然の振舞いである。だから、荒城の投げた牽制球を大袈裟に捉えるのは不自然だ。そもそも、何か疚しい行為に及んだ覚えもない。余計な御世話だし、過剰な穿鑿だ。侮辱された憤慨さえ、彼の脳裡を幾度も往来するほどだった。
 だが、それは逆恨みだったかも知れない。所帯持ちという呪符のような言葉が、午後の長い時間を通して、辰彦の頭の中を一度も去らなかった。その言葉に誘い出されて、梨帆の面影が何度も眼裏を行き交い、深閑とした夜空に描かれた恣意的な星座のように、娘の杷月の姿も列なって透明な視野に映じた。荒城の私生活に就いて、辰彦は殆ど何も知らなかった。結婚していて、子供が二三人いると聞いた覚えはあるが、それ以上の情報は何も持ち合わせていない。過去から現在に至るまで、彼の身の上に何らかの不品行があったかどうかも分からない。問題は、荒城の発する言葉に充ちている異様な重厚さ、容易に抗い難い奥行きのある説得力だった。乱暴な物言いで、強権的に編輯部を支配している荒城の人間性を殊更に清廉なものとして珍重する理由はないが、辰彦の眼には、荒城の存在は社会的な規範の体現者のように見えた。咎められても怯えずに立ち向かう為には、余りに強靭な鉄壁だった。
 そろそろ、自分の頭の中身と、生理的な真実と、真正面から向き合うべきなのかも知れないと彼は思った。今朝、通勤の途上で感じた不可解な恐懼を想い出す。梨帆が赤の他人に見えるという、寒気を覚えるような現象が、不愉快な音楽の如く鼓膜を繰り返し叩いた。俺は何を偽っているんだろうか。何かが咬み合っていないことは事実だ。擦れて軋り音を鳴らす歯車を、これ以上虐使するのにも限界がある。磨り減ったものを元通りに修繕するのは容易なことではない。新品に買い替えれば良い? だが、一点物に新品など有り得ないことは分かり切っている。
 夕刻の終業を迎えて、辰彦は珈琲のカップを洗いに立った。廊下の給湯室に、蛍光燈の光が射していて、人影が動いていた。椿だった。こんな時間に、歯を磨いているのだ。
「お疲れ様」
 然り気なく声を掛けて、振り向いた椿の唇に纏い付いた歯磨き粉の薄い泡に眼を留めた。椿は横に動いて、辰彦の為に場所を空けた。
「今日は残業しないんですか」
「もう疲れたよ。久し振りの仕事だから」
「何だか眠そうですね」
「早起きしたんだよ」
「私も。眠たいです。だから、歯磨きしてから帰ろうと思って」
「それで眠気が飛ぶのか?」
「気休めです」
 気負いなく答えて、辰彦がカップを濯ぎ終わるのを待っている椿の気配が、無闇に辰彦の指先を火照らせた。水気を切りながら蛇口を捻ると、椿が空いている左手に握った布巾を無言で差し出した。短く礼を言って受け取りながら、自然と言葉が口を衝いて出た。
「今日、暇?」
「特に予定はないです」
「一杯呑んで帰らないか」
「良いですよ」
 何も温度の上がらない遣り取りが却って、基礎的な体温の高さを暗黙裡に告げているように思われた。東京駅の日本橋口で落ち合う段取りを約して、辰彦は共用の戸棚にカップを蔵いに行った。帰り仕度に机の上を整理しながら、ちらりと荒城のデスクへ一瞥を投げる。空席だった。当り前だ。今日は午後から得意先へ挨拶回りに出掛けているのだ。反射的に生まれた内なる安堵が、辰彦を当惑させた。俺は疚しさを感じているのだろうか。正月早々、仕事の名目で、一回りほども年の離れた若い女性と酒を酌み交わす、そういう自分自身の行動に附随する不適切なニュアンスを、自覚していない訳ではない。況してや今日は、勤務時間中に何らかの教育的な関係さえ持たなかったのだ。彼女は独立した人間として、自分の力だけで、四方八方から襲い掛かる夥しい業務と頼もしい奮闘を演じていた。無論、何もかもが完璧だという訳ではない。それを言うなら、辰彦だって理想的な境地には遥か程遠い。とりあえず独りで歩けるようになること、自分の蹠で大地を踏み締め、時には転んで膝頭を擦り剝いたり脛に傷を作ったり、立ち上がるのに手助けや纏まった時間が必要だったりしながらも、何とか歩き方を弁えて試行錯誤出来るようになること、それが肝腎だ。そうなれば、一応は自分で自分を鍛えて磨き上げて行けるのだ。付きっ切りの介添えが欠かせない雛鳥の水準を、彼女は脱しつつあるのだ。それならば、殊更に二人の時間を設けるのは、彼女が自力で打開し得ない難局に差し掛かった場合だけでいい。少なくとも、それが業務上の関係における適切な距離というものである。その基準を自分が幾らか踏み越えてしまっていることに、辰彦は言語化されない疚しさを感じているのだった。だが、そんな欺瞞が、何時までも長続きするだろうか? 長続きして欲しいという勝手な願望が、彼の冷静な判断を鈍らせていた。