サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 37

 辰彦より一足先に会社を出ると、既に夕闇は濃かった。ビルの谷間を冷え切った疾風が鞘鳴りのように駆け抜け、滲んだ西日は何処か色褪せて見えた。椿はコートの襟許に顎を埋めて、上眼遣いに道路の対岸の信号機を見凝めた。都会の雑踏、という手垢に塗れた言葉を思い浮かべながら、彼女は低いヒールの尖端を舗道の土瀝青に突き立てて歩いた。暮れ泥む空、偽りの愛情、夢の後先。御用始めの飲み会という名目ならば尤もらしく聞こえるだろうか。両親は自分の娘が俄かに世慣れて社会の凡庸な習俗に染まり始めたことを嫌がるだろうか、それとも寿ぐだろうか。特段の関心は持たないだろうか。それならそれで構わない。癒着したような穿鑿は鬱陶しいだけだ。私はもう大人なのだ。ヒールが舗道の縁の段差に擦れて躰のバランスが一瞬、乱れた。直ぐに立て直しながら、私たちの関係の均衡は徐々に揺らぎつつある、と彼女は考えた。焦躁も動揺もなく、平淡な事実として、彼女はそれを直視した。二人きりの御用始めなんて、どう考えても良識的ではない。勿論、二人きりの御用始めだなんて言い方で誘われた訳ではない。言い訳を考えている自分自身に、椿は奇妙な屈折を見出した。断るべきだったろうか。しかし、感情的な体温だけで言えば、断る理由は何も見当たらなかったのだ。寧ろ、それは予定されていた成り行きのように感じられた。給湯室で、短い遣り取りだけで合意に達し、会社を離れた場所で合流する、その流れはずっと前から、年が明ける以前から、既に定まっていたようにも思われるのだった。
 東京駅日本橋口の大きな看板が、曲がり角から見えた。誰か知り合いが通るだろうか、しかし、幾らでも言い訳は立つ、独りで歩いている限りは。夕闇が紫色まで、皮膚病の重篤な症状のように亢進し、寒さが急激に強まって袖口から忍び入った。駅舎の構内に入り、腕時計の文字盤を一瞥し、携帯の画面を確認する。辰彦は帰り際に仕事の用件で同僚に捕まって、書類鞄をデスクの上に立てたまま、話し込み始めた。椿は涼しい顔で方々に挨拶して回ってから会社を出た。余り長引かないと好いなと思いながら、メッセージの届いていない携帯の画面を閉じて、何処かカフェに入って時間を潰そうと考えた。黒っぽいコートを着込んだ勤人が数多く行き交っていた。東京の土産物を商う区画は閑散としている。天井の高い幅広の通路を照らす灯りは不必要に白く眩い。見慣れたチェーンストアの看板に導かれて、熱いカフェラテを頼んだ。がらんとした店内の二階へ上がり、壁に面した単身向けの席へ陣取った。辰彦が着いたら、直ぐに席を立つ積りだった。
「高邑」
 不意に背後から声を掛けられて、椿は鋭く振り向いた。暁闇のように暗いウールのコートを羽織った荒城が、見慣れた強面で此方を見下ろしていた。
「お疲れ様です」
「帰りか」
「はい」
「真っ直ぐ帰らんのか」
「少し一休みしたくて。とても寒いですし」
 淡々と答えながら、仄かな気不味さを押し殺す。一人きりで良かったと思いながら、しかし、辰彦と一緒にいたとしても別に怪しまれる筋合いはないと、密かに別の自分が言い張った。別に何も疚しいことはない。世話役の先輩と、トラブルメーカーの丁稚が、退勤後のカフェで小さな反省会を催すのがコンプライアンスに違反するとでも? そんなの、考え過ぎだ。仮に部長が何か不審を覚えたとしても、当事者同士が合意しているならば、余計な差し出口を叩かれる義理はない筈だ。
「そうか」
 荒城は何か考え込んでいる様子だったが、それ以上の追及は試みなかった。ちゃんと学業にもけじめをつけろ、卒業をしくじったら、内定も取り消すからなと、冗談なのか本気なのか境目の見え辛い科白を残して、階下へ消えて行った。その堂々たる後ろ姿を慎重に見送ってから、携帯の画面を見た。着信が二件入っていた。指先を迅速に操って、今偶然部長に遭遇したと送る。少し困惑したような空白を挟んで、丸の内口に迂回するよと言ってきた。了解の文字を手早く打って席を立つ。呑みかけた珈琲を晩秋の栗鼠のように啜って、返却台に下げた。店を出て、人波の揺れ動く通路を見渡した。部長の黒いコートは何処にも見当たらなかった。何故、こんなに怯えているのか、虐げられた鼠のように臆病な警戒心を高ぶらせているのか、椿は自分自身に向かって問い掛けようとして途中で止めた。馬鹿げている。全く馬鹿げている。こんな自問自答、見え透いている。疚しい理由が分からないと嘯くのは初歩的な欺瞞じゃないか。事情を知って直ぐに駅舎の反対側へ移動すると報せてきた辰彦だって、そんなの欺瞞だと分かっているだろう。
 否が応でも直面しなければならない問題、しかし、それを明瞭な言葉に置き換えることは躊躇われた。私たちは一体、何を気に病んでいるのだろうか? そう言えば、知らない間に私たちは、反省会という胡散臭い名目さえ口に出さない間柄にまで堕落してしまった。気付かない間に。だが、本当に気付かずに通り過ぎたのだろうか? 本当は、そこが危険な路地裏へ通じる曲がり角だと察していたのではないか。椿は歩調を速めた。引き返すならば今だけど、厳密には、もう手遅れなんじゃないか。少なくとも、もう手遅れだという開き直った言い訳を自分自身に許してしまう程度には、手遅れなんじゃないか。