サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 二十三 商売敵との対峙

 それは息詰まるような蒼白の沈黙に貫かれた、忌まわしい時間であった。ラクヴェル氏の冷淡で蔑みの感情に満ちた顔を、私は今でも克明に、生々しく想い起こすことが出来る。その邪悪な商館長と正面から向かい合って対峙したバエットの不敵な面構えも、未だに私の眼裏にこびりついているような気さえする。
 飄然とした物腰のバエットは、商館長の放射する剣呑な眼差しに射竦められた素振りも見せず、堂々と両腕を組んで商売敵の顔を見据えていた。指先に摘んだ葉巻をゆっくりと口許に運ぶ間も、ラクヴェルの瞳は陰湿な蛇のように不快な闖入者への敵意を凝固させていた。
「ヴェンドラ州侯家の間者に見張って頂けるとは光栄ですな。知らない間に、随分な大物へ出世していたようだ」
 商館長の恫喝を嘲るようにバエットは薄笑いさえ浮かべて言い返してみせた。
「余裕を醸し出してみせるのも結構だが、生憎、こっちは古株の商館員だ。欺かれようがない」
 ラクヴェルはゆっくりと見せつけるように豊かな紫煙を吐き出し、バエットに優るとも劣らない冷ややかな嘲笑を頬や唇に刻み込んだ。
「ファルペイア州立護送団の五十六番護送小隊、小隊長のクラム・バエット。お前の向う脛に刻み込まれた傷痕の由来を一つ一つ丁寧に穿り返して、ソタルミア卿の御耳に入れて差し上げるのは容易なことだ。多少は口の利き方を弁えたらどうだ」
「向う脛の傷? それは御互い様ではありませんか、商館長殿」
 陰湿な蛇の吐き出す邪悪な毒気にも中てられた様子はなく、バエットは肩を聳やかして客用の長椅子の端へ、私たちと並んで腰を下ろした。その不躾な非礼に、ラクヴェルの眼光は益々匕首を思わせる冷淡な輝きを高ぶらせた。
「ハイジェリー商会が、ダドリアとの国境に面するビアムルテ州という地の利を活かして、血腥い物資の売り買いで肥えてきたことは周知の事実でしょう。だが、それさえも本当は表向きの白粉を叩いた肌のようなものでしかない。その肌の裏側にどんな暗黒の陰謀が隠されているか、我々護送員の間では、誠に悍ましい噂が次から次へと流行り病のように現れては消えていきます」
「無責任な戯言に時を費やすお前たちの見識とやらに、世間が耳を傾けるとでも暢気に信じているのかね」
 当初の柔和な物腰とは打って変わって攻撃的で挑戦的な商館長の態度に、私とポルジャー君は唖然とすることしか出来なかった。綿毛のような白髪も、皺一つ寄っていない高価なセレナジャケットの着こなしも、最初にこの部屋へ足を踏み入れた瞬間から微塵も変化していないにも拘らず、私の眼には、決定的で劇的な変貌が生じたように映った。それは予め社会的な配慮から抑圧され、蔽い隠されていた荒々しい感情の突発的な奔出に過ぎないのだろうか。それとも、私の眼力が最初から歴然と明示されていた徴候を、迂闊にも見落としてしまっていたに過ぎないのだろうか。
「何れにせよ、どんな議論を吹っ掛けられたところで、此方としては方針を革めようとは思わんよ。君には君の都合があり、私には私の都合がある。それは単純明快な真理だ。君の個人的感情がどうであれ、真理というのはそう簡単に色合いを変えるものではない。引き取りたまえ。御互いに貴重な人生の一刻を無意味に浪費する必要はない。人生は常に有益なものへの建設的な挑戦であるべきだ。違うかね?」
 ラクヴェルの厳かな言い分は、私たちの感情に落ち着いた納得を授けるものではなかったが、先方が非協力の意思をあからさまに示すこと自体を断罪する権利は、私たちの掌中には握られていなかった。腹を空かせた野良猫に追い詰められた薄汚い溝鼠のような瞳を、縋るようにバエットへ向けると、彼は役者のように大仰な身振りで逞しい肩を竦めてみせた。
「仰る通りだ。そちらに協力の意思がないのなら、此処で不毛な議論に時間を費やすのは馬鹿げている。それは認めましょう。私たちは私たちなりの手段を案出して、目的を遂げるほかない。願わくば、余計な横槍は無用に願いますよ、商館長閣下」
「横槍は君らの方じゃないかね」
 憤然たる感情を吊り上がった灰色の眉に露わに滲ませつつ、ラクヴェルは葉巻を灰皿の縁へ立て掛けて両手の指を揉み合わせた。
「何度でも説明してやろう。此処は我々ハイジェリー商会の縄張りで、ヴェンドラ州侯家の御膝元だ。摂政派に武器弾薬を供与する資格は、我々の手で独占されている。遠来の異邦人に分け前を呉れてやる義理はない。分かったら、さっさとジャルーアへ引き返すんだな」
「そこまで従順である義理がありますかね、商館長閣下」
 慇懃無礼という表現が誰よりも似合う不遜な物腰で、バエットは極上の愛想笑いを浮かべてみせた。
「我々は我々の流儀で風穴を穿つ積りです。その邪魔は遠慮してもらいたい」
「蠅のように見苦しい男だな、君は」
 ラクヴェルは片手を振り上げて、眉目秀麗な秘書のピアレンを呼びつけ、客人を出口へ案内するように無言で命じた。
「後悔することになる。世間というのは、地獄よりも地獄らしいものだ」
 険しい表情で僅かに眼を伏せたピアレンが背後の扉を開け放つ音が聞こえた。慌てて立ち上がった私とポルジャー君の退出を待って、バエットは至極儀礼的な御辞儀をし、ラクヴェル氏の貴重な御時間を拝借したことに関して、極めて控えめな謝意を示してみせた。