サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 三十二 狐色の頭巾の男

「結論から言えば、船は用立ててくれるんだな?」
 痺れを切らしたバエットの眉間には三日月のような皺が幾つも縦に列なって見えた。頑迷極まりない性格のアルガフェラと向かい合って彼是と不毛な議論に時を費やすのは、彼の主義にも方針にも反する選択であった。ビアール人がファンカス人に懐いている根深い歴史的な怨嗟と憎悪に、一定の良識的な敬意を支払うことに就いては、私としても吝かではないが、だからと言ってアルガフェラ氏の陰険な私情に長々と付き合っている暇はない。私たちとしては一刻も早く任務を済ませて、住み慣れた我が家へ銘々舞い戻ることが大事なのであり、不穏な積荷を携えたまま、勝手の分からない異郷の土地をダラダラとさ迷い歩くのは絶対に願い下げであった。相手の癇癪は幾らでも爆発してくれて構わないから、取り急ぎ目的地への航路だけでも着実に確保しておかねばならない。その意味で、バエットの単刀直入の方針は、私自身の密かな思惑とも見事に合致する内容であった。
「全く、人に物を頼む態度じゃねえな」
「下手に出れば、優しくしてもらえるとも思えないがね」
 アルガフェラの呆れ果てた、刺々しい物言いに痛痒を覚えることもなく、バエットは涼しい顔で反駁した。アルガフェラは大袈裟に肩を竦め、首を亀の子のように縮めて、卓上の杯に注いだ水か何かを(つまり中身は私の位置からは見えなかったし、確かめようもなかったということだ)一息に荒々しく飲み乾して、細めた二つの瞼の隙間から、淫猥な光を帯びた眼差しを放った。濡れて捲れた唇の隙間に紙巻の莨を挟み込んで、洞窟を思わせる双子の窖から苦い紫煙を垂れ流す。
「ああ。まあ、何でも利用すりゃあいいと思ってる訳だ。お前らが弾薬を担いでダドリアに潜り込めば、それだけ火種が大きくなるんだ。それなら手伝ってやってもいいさ。精々、道中でくたばらねえように気張れよ」
「有難い忠告だ。だが、あんたにとっちゃ、俺たちが途中で斃れようがどうなろうが、構わないんだろう?」
 バエットの厭味な発言に胃袋の底を擽られたかのように、アルガフェラ氏は堂々たる体躯を揺さ振って活火山の哄笑を炸裂させ、室内の湿っぽい空気を揺さ振った。
「全くだ。お前の仰る通り、こっちは何の痛手もねえさ。だが、そこまで見縊られるのも癪だぜ。いいか、俺だって男の沽券って奴に関心がない訳じゃねえんだ。一応は手を貸すと約束した相手なら、そう簡単に裏切ったり見限ったりはしねえ積りさ。少なくとも、途中の海原に縛り上げて樽みたいに投げ込んだりはしねえと誓うぞ」
「それを聞いて安心したな」
 バエットは唇を僅かに歪めて、満更でもない様子でアルガフェラ氏の豪放な宣言に頷いた。

 それから半時も経たぬうちに、アルガフェラの肝煎りで現れた数名の屈強な男たちの風貌は、我らがクラム・バエット小隊長の率いる護送員の面々にも負けず劣らず、修羅場に慣れた血腥い香気をたっぷりと含んでいた。
「こいつがお前たちの命を預かって、ダドリアまでの旅路を請け負ってくれる」
 アルガフェラの毛むくじゃらの棍棒のような腕が指し示した男は、狐色の頭巾を被った隻眼の若い男であった。若いと言っても、それは私が漠然と感じ取った印象に過ぎず、実際の年齢が幾つなのか、その手懸りを掴む術はなかった。
マジャール・ピントだ。俺の『風花号』に乗りたがってるのは、お前らか」
 狐色の頭巾を目深に被った男の鋭利な眼つきは、バエットの総身を嘗め回すように検分していた。その周りに屯するヤミツバメの人夫たちも、痩躯の親分を後ろから励ますように威圧的な眼差しを此方へ差し向けていた。如何にも剣呑な空気と、彼らの一斉に吹かす濃密で芳醇な莨の臭いに噎せ返りながら、私は黙って大人しく座っていた。傍らのエレファン・ポルジャー君はすっかり精神的に参っていて、怪しい男たちに取り囲まれて最早逃げ出しようもない苛酷な現実に、今にも泡を吹いて倒れそうになるのを辛うじて堪えているような有様だった。
「ポルジャー、大丈夫か。別にこの人たちは、君を取って食おうという魂胆じゃないぞ」
「分かってます、監督官。ただ、少し躰の具合が悪いだけなんです」
「悪いのは心じゃないのか」
「分かりません、監督官。私はもう、兎に角、眩暈を堪えるので必死です」
 私とポルジャー君が密かに声を殺して囁きを交わしている間にも、ヤミツバメの首領マジャール・ピントと、我らの頼もしい保護者クラム・バエットの間で、暴力的な商談は着々と進められつつあった。
「出発は明日、日が暮れてからだ」
「悠長なことを言わないでくれ。夜明けが来る前に出発してくれ」
「馬鹿を言うな。夜明けが来る前に出たところで、向こうへ着く頃に陽が昇っていたら、官憲に眼を着けられる」
「夜明けまでに着けばいいだろう」
「素人が何を馬鹿げたことを」
 ポルジャー君との密談を打ち切って耳を澄ませてみると、今度は新たな火種が持ち上がっていることが分かった。出発を急ぐバエットと、常識的な見解を示すマジャール・ピントとの間で、互いに譲歩を拒む押問答が繰り広げられているのだ。私はすっかり気が滅入って、深甚な溜息を吐くことで精一杯だった。