サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 三十八 銛撃ちクラッツェルの渾身の投擲

「だが、構うことはないとも言えるな。何れにせよ、フクロウどもの餌食になるのは真っ平御免だ」
 ジグレル・クラッツェルの良識的な懸念に対して、小隊長クラム・バエットが導き出した答えの中身は随分と粗略で大雑把なものであった。最早、それは一つの組織を纏め上げ、統率する小隊長としての職責を抛棄したに等しい無遠慮で投げ遣りな方針に聞こえたが、その答えを実際に受け取った側の人間である銛撃ちのクラッツェルは、特段戸惑った様子も見せずに寧ろ涼しげに頷いた。
「連中に積荷の中身を覗かれるのは拙い。兎に角、一発咬ましてやりましょう」
 長年の共闘と忠誠が、価値観の自然な合致を齎すのだろうか、バエットの言外の意図さえ繊細に汲み取り、ジグレル・クラッツェルは商売道具の銛を誰かに運ばせるべく、舷側へ獅噛みついて鋼線の編み込まれた麻縄へ分厚いナイフの刃を叩きつけている若い護送員の肩を力強く叩いた。
「何時までも無駄な努力に時間を費やすな、パーレン。俺の銛を担ぎ出して来い」
「撃つんですか、クラッツェルさん」
 力一杯殴りつけられた肩口の不愉快な痛みに眉を顰めることもなく、若々しい白皙の面貌を備えた下っ端の護送員サルデガード・パーレンは、透き通るような緑柱石の瞳に好奇心の情熱的な火焔を明るく煌かせて早々と腰を浮かせた。
「撃つんですかじゃねえ。悠長な口を利いてる暇はねえんだ。フクロウどもの餌食になりてえのか」
「とんでもないです! 直ぐに持って来ます」
 クラッツェルの愛用する使い込まれた巨大な銛は、捕鯨の拠点として繁栄を極めるダントレアナ州の州都パーフォーヴェンで製造された特注の逸品であり、嵩張る上に頗る重たいこの剣呑な道具を痩せ細った老い耄れの隠避船の積荷としてピント氏に認めさせるまでには、随分と骨の折れる交渉の時間が必要であった。最終的にはクラッツェルとバエットの強硬な言い分に加えて割増しの報酬を支払うという約束の効力に絆されて頷いたピント氏も、こうして銛が実際に役立つ場面に遭遇したとなれば、内心で快哉を叫ぶに違いない。
 台車に積まれて運ばれてきたクラッツェルの大事な相棒は、闇の中で揺れ動く檣燈の頼りない明かりを浴びて、不吉で陰鬱な光沢を滾らせていた。その巨大な敵娼に野太い腕を伸ばして鍛え抜かれた分厚い筋肉を思うさま酷使すると、我らが英雄ジグレル・クラッツェルは深い森の奥を走り回る羆のような唸り声を上げて、砲身のようにも見えるその捕鯨用の銛を持ち上げて身構えた。
「台座が動かねえように甲板へ据え付けとけよ」
「勿論です!」
 クラッツェルの使い走りという光栄な役目を仰せ付かることに日頃から慣れているのか、若いパーレンは俊敏な手つきで鋼鉄の重厚な台座へ縋りつき、巨大な釘を四方の穴に差し込んで力一杯鉄鎚を打ち付けた。
「さあて、勝負の始まりだ」
 逞しい上体を石弓の如くきりきりと撓らせて、クラッツェルは如何にも獰猛な狩人に相応しい陰惨で不敵な笑いを満面に濫れ返らせた。周りを取り囲む護送団の同胞たちの熱烈な注視を浴びながら、彼の鋼鉄の筋肉は溶岩の如く盛り上がり、異様な緊張感に支配された沈黙が騒がしい甲板の一角に吹き溜まりのように突如として形成された。
 私はその光景を黙って見凝めていた。いや、黙り込む以外の何が、そのときの私に出来ただろう。檣燈の投げ掛ける赤みの強い光の下で、極限まで錬磨された大男の姿形は偉大な勇者の彫像のように見えた。掲げられた大きな銛は洋上の闇を吸い込んだように黒々とした緊張を湛えており、行く手に立ち開かるフクロウたちの傍若無人の暴虐を嘲笑するように静かであった。そして数秒の静寂の後に、眼にも留まらぬ速度で放たれた強靭な一撃は、熱り立つ人々の頭上を飛び越えて夜半の潮風を易々と劈き、独特の残響を私たちの鼓膜に投げつけて、獲物へ飛び掛かった。強烈な一撃が相手の主檣へ突き当たり、僅かの抵抗も許さずに巨体を叩きつけて、熟練の樵のように見事に押し倒した。海賊どもの絶叫と悲鳴が海原を蹂躙し、圧し折られた主檣の下敷きになった不運な悪漢が断末魔の叫びを迸らせながら動かなくなった。何もかもが一瞬の出来事のように、一幅の絵画のように凝縮されて私の射竦められた視界を立ち所に覆い尽くした。
「縄を巻き取れ!」
 然し当の本人は自らの偉大な成果を誇示しようともせずに、油断大敵と言わんばかりの物凄い剣幕で後方を振り返り、台座に取りついて滑車の把手を握り締めた忠実な助手パーレンに向けて劇しく怒鳴った。厳しく躾けられた奴隷のような素早さで、パーレンは主人よりも遥かに痩せているものの、若さゆえの瑞々しい柔軟さを十二分に備えた両腕の筋肉を精一杯使役して、銛を結わえた縄を巻き取る為に猛然と滑車を回転させた。敵の主檣を打ち砕いた勇猛な銛は凱旋する兵隊のようにフクロウたちの間を這い回って、再び私たちの待ち構える貧弱な隠避船まで華々しく帰還した。