サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 四十三 真昼の静かな小屋

 私たち護送団の一部が、砂浜から海岸線に沿って進む東西の二つの見晴らしのいい経路から除外され、何処に危険な野獣や異族が潜んでいるかも知れない不穏な叢林の中を分け入る経路へ割り当てられてしまったのは、確かに不本意な事態ではあったが、何れにせよ誰かが引き受けるしかない厄介な命運ならば殊更に嫌がるのも筋違いだろうと、我らの隊長クラム・バエットは落ち着き払った態度で言い切った。その勇敢で高潔な姿勢は益々、クラム・バエットという人物に対する私たちの尊崇の感情を強め、極限まで煽動した。この男は如何なる窮地に追い込まれても微動だにせず、如何なる艱難や不幸にも屈することのない冷徹な指導者なのだ。
 だが、幾ら沈着無比の偉大なる指導者に恵まれたとしても、彼がこの絶海の離島における無知の新参者である事実に変わりはない。彼の堂々たる体躯は、決して眼前に広がる不快な樹林の地理に通暁しているという満腔の自信に基づいている訳ではない。彼も私も、この離島の地理に関して全くの素人である事実において、等しく緊密に結び付けられた間柄なのであり、堂々と大股で力強く大地を踏み締めようが、腰抜けの屁っ放り腰で情け無く這い回ろうが、如何なる危難にも無知な素人であるという厳粛な真理が書き替えられる見込みは皆無なのだ。
 実際、その樹林は南洋の孤島に相応しい鬱蒼たる深淵として、私たちの行く手に荒々しく立ち開かっていた。何れの方角に鼻先を向けても眼に映る風物に大差は生じず、不気味な、胆嚢の表面を冷たい舌先で嘗め回されるような心持のする見知らぬ鳥の啼き声が、私たちの鼓膜を恫喝するように鳴り響いて直ぐに又消え去っていく。得体の知れぬ、姿も捉えられぬ種々の虫たちの唸り声も、濫れんばかりの日を受けて育った大振りの濃緑色の葉叢の擦れる音も、異邦人である私たちの耳には間接的な警告のように聞こえ、幾度も背後を振り返り、剣呑で物欲しげな野獣に血肉を狙われていないか、我々の言語も習俗も解する力を持たない未知の蕃人に追尾されていないか、絶えず注意を払いながら進まずにはいられぬ心境を、憐れな私たちに強要するのであった。
 だが、私たちの気疲れすること甚だしい探索行は幸いにも事前の想定を好ましい方向へ裏切り、具体的な危険によって妨礙されることなく、慎ましやかに進捗した。巨大な野猿に頭の毛を乱暴に毟り取られることも、毒蛇の石灰のような牙に尻の肉を削り取られることもなく、私たちは単調な密林の息詰まる風景の中を只管に黙々と掻き分け続けた。無論、私にとっては南洋の密林を探索するなどという経験は生涯で初めてのことで、野猿や毒蛇の跋扈する薄暗い樹海に対する純真な処女の戦慄は片時も胸底を去らなかった。それでも、一向に具体的な危難に巡り逢わない時間が続けば、現金なもので当初の恐懼も警戒心も徐々に薄れてしまい、気付けば異郷に身を置くことの不安より、息苦しい暑さに覆われた密林を往くことの退屈さの方が、精神の主題を占めるようになっていった。
 黙って薄暗い密林を少しずつ徒歩で踏み分けていくことの単調な倦怠を、人々は想像することも出来ないだろう。況してや当時の私たちは数日間の命懸けの不幸な漂流を終えたばかりの陰惨な窮境にあり、体力も気力も限界まで痛めつけられ、踏み拉かれた直後であった。そういう極限の疲弊に五体を蝕まれた人間が、異郷の密林で容易く散漫な精神状態に陥ることが如何に止むを得ない仕儀であるか、正しく読者諸賢に理解してもらうことは恐らく困難であろう。
 だから、先頭に立って仄暗い樹林の繁みを切り拓き、颯爽と突き進んでいたクラム・バエットの頑丈な肉体が不意に立ち止まったとき、私が束の間の夢想に囚われて、彼の逞しい背中に思い切り鼻先を叩きつける結果となったのも、所謂不可抗力の所産なのである。その瞬間、私は密林の奥で見つけた秘跡のような、清らかな真水の濫れる泉の窪みに餓えた馬車馬のように鼻面を押し当てて、息をする時間さえもどかしく感じながら、ごくごくと喉笛を鳴らして火傷にも似た渇きを癒やしている白昼の妄想から、手荒く引き剥がされるように眼を覚ました。
「野蛮人の御出ましか、それとも気立ての良い宿屋の主人との運命的な邂逅か」
 低い声で卑俗な詩句を諳んじるように呟くバエットの声が、私の澱んだ意識を甘く揺り起こした。
「いきなり、何を言い出すんです」
「見えないんですか、ルヘランさん。光を失うには、未だ早過ぎる。希望は酒精のように儚いが、たった一滴でも、魂に火を燈す力を備えていると、私の故郷が生んだ偉大な詩人パーレンヤットは歌いました。正しく、それと同じ気分ですよ」
 朦朧とした意識の縁から漸く顔を出したばかりの私の貧弱な理性は、バエットの詩的な科白が暗示するものの正体を咄嗟に掴み取ることが出来なかった。立ち止まった彼の隆々たる肉厚の肩越しに、先刻とは異質な光の塊が切り拓かれているように見えた。半ば眼が眩んでいたのかも知れない。
「小屋ですよ。此処は無人島じゃないんだ。無論、同族に巡り逢えたとしても、それが幸福な出来事であるかどうかは、別の問題ですがね」
 バエットの冷笑的な物言いを聞き流しながら目線を持ち上げた先には確かに、木組みの粗末な小屋が一棟、南洋の赫奕たる陽射しを浴びて聳え立っていた。