サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「サラダ坊主日記」開設五周年記念の辞

 過日、八月二十五日を以て「サラダ坊主日記」は、開設五周年の節目を迎えた。

 一年前の今頃は何をやっていたのだろうと記事を漁ってみると、近頃は自作の小説を書くことに熱中しており、過去に投稿した創作を纏めて「カクヨム」へ移管し、このブログから削除した旨、記述があった。結局、一年が経過した今では、既に「カクヨム」のアカウントは抹殺され、拙い草稿の類は再びこのブログへ転居している。何だか、一年経っても遣っていることに何らの進捗もないようで、滑稽でもあり気鬱でもある。
 仕事の方は配属が変わり、新型コロナの災禍を蒙って目下業績不振であるが、不振ゆえに肉体的な負担は軽少である。緊急事態宣言の発令中は、転属先が休業の為、無闇に休みが多くて閉口した。尤も、珍しく家族との濃密な時間を過ごせたのは貴重な収穫だった。忌まわしきコロナウイルスに謝辞を捧げる意志は毛頭ないが、逆境においても明るい材料を努めて掘り起こすのは処世の叡智である。悲嘆の淵に沈んでも、状況が劇的な好転を遂げる訳ではない。コロナの影響で窮屈な生活、不如意な生活を強いられているのは別に私だけではない。だから、嘆いても無益である。
 仕事の環境は変わっても、私生活のリズムは余り変化していない。四歳になった娘は日に日に姦しく、口達者で小生意気になり、愈々頼もしくなってきた。気に入らないことがあると、父親を足蹴にするので迷惑している。どうも我が強く、頑迷で、そのくせ妙に剽軽な気質である。相変わらず保育所では男子に混じって走り廻っている。ただ最近は親密な間柄の女友達もいるらしく、とりあえず純度一〇〇パーセントの男子ではなくなって安心している。性別の隔てなく、周りと親しくしてくれるなら、親は安心である。

 時々小説を書いたり、読書の感想を綴ったり、私生活の定石は弛まぬ反復の裡に封じられている。三島由紀夫の繙読に区切りがつき、最近は安部公房の小説を集中的に読んでいる。先々は、大江健三郎中上健次古井由吉車谷長吉村上春樹坂口安吾などに取り組んでいきたいと夢想している。だが、計画が順調に進むかどうかは心許ない。小説を読むことは、簡便な娯楽ではない。受動的に身構えていたら、行間の意味を悉く取りこぼしかねないし、多方面の分野における知識の欠如が、順調な読解を妨げることもある。安部公房の文章など、確り集中して掴まっていなければ、あっという間に振り落とされかねない強靭な奥行を備えているので油断大敵である。それに読書は頁を捲って終わりではない。読み終えた後に反芻して、充塡された意味の複雑な編み目を解すことも重要である。小説は読むだけでなく、時折想い出すべきものでもある。その追想の密度を高める為の工夫として、感想の記録は有効であると信じているが、実際はどうだろうか。よく分かっていない。

 「表現」ということに就いて、最近考える。それは「形を与える」ということなのだろうか。その「形の与え方」のパターンに、作者の個性が滲み出る。三島由紀夫の文体と、安部公房の文体との間には明瞭な異質性が存在する。それは即ち、両者の思想や価値観や感受性の歴然たる差異の存在を示唆している。「表現されたもの」から遡行して、読者は「表現」と分かち難く結び付いた「世界観」に接触する。三島と安部は、少なくとも同じ時代の同じ国家に生き、同時代の日本語を用いて種々の表現を行なっているにも拘らず、そこには明らかな差異が顕示されている。共通の言語を駆使しながら、猶もそこには表現における異質性が不可避的に顕れている。単純化して言えば、それは言葉の組み合わせの問題である。しかも、その組み合わせは、単語同士の並列的な組み合わせのパターンに留まるものではなく、文脈との組み合わせにおいても無限のヴァリエーションを持つ。並列的な結合と、垂直的な聯関が複雑に入り乱れているのだ。そうやって言語の複雑な連携を通じて粘り強く醸成される個性の表現、それは様式が小説であろうとなかろうと同じことで、無論「小説」という形式に固有の表現の様態というものは有り得るだろうが、何れにせよ言語的な表現が、人間の固有性を表示する重要な機能を担っていることに変わりはない。
 私は書くことを通じて、確かに自己の表現を行なっているのだろう。但し「小説」という形式に関して言えば、それは自己の直截な告白であるとは限らない一方で、極めて直截な告白の形式を選び取ることも可能だ。色々な「小説」を読みながら、その厳格な定義の難しさに私は何度も当惑してきた。そもそも個々の作品を十把一絡げにして「小説」という名称で括ること自体が、余りに雑駁な便宜的措置に過ぎないのかも知れず、極端に言えば「安部公房のテクスト」「三島由紀夫のテクスト」とでも呼ぶしかないものが銘々独自に存在しているだけに過ぎないのかも知れない。小説であろうが詩歌であろうが随想であろうが劇作であろうが、要するに同じことで、それぞれの作品が備えている形式的な特徴も一律ではない。限りなく「批評」に近い小説もあれば、限りなく「詩歌」に近い小説もある。その意味では、そもそも「小説」とは単なる「物語」ではなく、従って「小説」を「散文で書かれた虚構」と看做すことに実効的な意義はない。
 それならば、一体人間は何を書いているのか。書くということは何を意味しているのか。言語を通じて表現する、それが様々な形態を取り得るというだけならば、歴史的に形成された「小説」や「詩歌」といった分類は、その極めて曖昧な拡大に過ぎないのではないか。
 言うまでもなく、作者は生身の個人である。しかし、書かれたもの、表現されたものから帰納的に類推される「作者」の像は、生身の個人と完全に重なり合うとは限らない。類推された「作者」の形象は、確かに一つの人格であり、価値観であり、世界観であり、それらの綜合的な表現である。明示された署名以上に、類推された「作者」の固有性こそ、諸々のテクストを結び付けて統御する重要な中核を成す。そして読解とは要するに、類推された「作者」を隈なく把握し、理解することなのだろう。そうやって「他者」と結び付くことが「表現」の価値である。或いは、このようにも考えられるだろうか。書くことは、自己の分身を創造することに等しいのだと。書かなければ表出されることも形成されることもなかった自己の分身を生み出すことが、あらゆる「表現」の眼目なのではないか。想像的分身、とでも呼ぶべきだろうか。何も書かなかったとしても、三島由紀夫という生身の個人、安部公房という生身の個人は歴史的に存在しただろうが、その名前で指し示される一つの表現的人格は、書かれることがなければ存在しなかったものだ。言い換えれば「表現」とは自己の改造であり、拡張であり、分化であり、脱出である。在るがままの自己に充たされないとき、人間は何らかの「表現」に向かって性急に赴く。少なくとも、自分自身の裡に完全に充足している限り、人間は「表現」の生理的な必要性を認めない。それならば「表現」の源泉とは要するに「飢渇」である。このままの自己によって充たされない人間が「表現」という営為を切実に要求する。別様の自己を産むこと、つまり「表現された自己」という別様の自己を産むことが、あらゆる「表現」に内在する原理的な願いなのである。