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Digital Anxiety 安部公房「第四間氷期」

 安部公房の長篇小説『第四間氷期』(新潮文庫)を読了したので、感想文を認める。

 荒唐無稽の奇怪な設定を案出し、それによって我々の属する社会の日常的現実を宙吊りにしてしまう実験的精神は、安部公房の作風を成す顕著な特徴の一つである。無論、作家ならば誰しも虚構の物語を拵えて、人間の実存の多様な「可能態」(dunamis)に、想像の力を借りて克明な「現実態」(energeia)を授けることに労力を支払うものだが、安部公房の場合は特に、その想像力の射程が幅広く、しかも絶えずそこに科学的な論理による補強が附されているように見える。無論、彼の主要な関心は必ずしも科学的な論理の実際的な精確さに寄せられている訳ではない。科学的知見は着想の材料であり、重要なのは案出された奇怪な設定の内部で動き回る人間たちの心理的葛藤や、存在の根本的な変容である。
 「予言機械」と「水棲人」という二つの怪奇なイメージを縒り合わせて、安部は不吉な未来の「ブループリント」(blueprint)を描き出してみせる。人体を改造して水棲に適した新たな生物に進化させるという着想は、人間の古典的な定義を疑って已まない作者の揺るぎない信条を明瞭に反映している。肉体を単なる物質に還元しようとする作者の冷徹な視点は、科学者の特質であるとも言えるし、或いは「論理的帰結」(corollary)に対する強靭な忠誠心の顕れであるとも言えるだろう。人間の主体的意志を必ずしも重視しない作者の姿勢は、人間を実験用のモルモットの如く遇することに躊躇しない。言い換えれば、彼は「人間」という種族の固有性や特権的な栄光を、つまりヒューマニズムの感傷を涼しい顔で踏み躙っているのである。
 勝見博士の作り出した予言機械は、未来に関する仮借ない論理的帰結を導き出し、告示する。その予言が描き出す未来のブループリントは、劇しい心理的抵抗を勝見の内面に惹起する。勝見はその抵抗ゆえに保守的な人物として断罪され、推進されるべき未来図を毀損する不毛な存在として処刑される。彼の保守性は、通俗的ヒューマニズムに根差したものである。彼は予言機械の論理的な整合性、精確性に疑義を呈し、水棲人による地球の支配という突拍子もない青写真に猛烈な敵意を示す。言い換えれば、勝見は人類の歴史的な連続性、日常という秩序の連続性に対する不合理な冒瀆を「水棲人社会」という奇態なブループリントの裡に読み取ったのである。
 安部公房の作品の過半は、平凡な日常性の急激な瓦解、しかも理不尽な瓦解という劇的構成を備えている。その瓦解に、明晰な説明が与えられることはない。いや、論理的説明は幾らでも豊富に与えられるのだが、それは常に「水棲人」という「未来」のイメージのように、超克し難い根源的断絶を孕んで主人公及び読者に向かって迫るのである。作者は後書きにおいて「第四間氷期」という作品の中心的主題が「未来」という観念に内在する本質的な「残酷さ」であることを明瞭に述べている。「現在」の側から眺めれば、恐らく「未来」というものは常に残酷な相貌を伴って顕現する定めを帯びている。「未来」の本質的な断絶性、つまり「現在」の平坦な延長線上に存在する世界が「未来」に該当するのではなく、例えば「現在」の急激な相転移の帰結のようなものとして「未来」が存在しているという考え方が、安部公房の創作の主眼を成しているのである。
 こうした考え方は「現在/未来」の関係性という問題に限って提示されるものではなく、謂わば「離散的」な信念、即ち「連続性に対する不信=懐疑」とでも称すべき精神の傾向が、安部公房という表現的人格の中核を領しているのではないかと思われる。「連続性」に対する絶えざる不信は、例えば「S・カルマ氏の犯罪」で示された「自己同一性」に対する懐疑や、或いは「赤い繭」や「闖入者」などの作品に見出される「帰属」の不確実性といった観念と密接に結び付いている。堅牢な日常に安住することの出来ない根源的不安、それは確かに「本質に対する存在の先行と優位」を唱えた実存主義に近しい不安の様式であるように思われる。安部公房の作品に登場する夥しい「変身/分身」のイメージ、或いは世界全体の極端な変貌のイメージ(「第四間氷期」の他にも、例えば「水中都市」や「洪水」など)は、こうした「連続性」に対する不安、言い換えれば「離散的不安」とでも呼ぶべき種類の心理的不安が、安部公房の芸術における基調音として充満していることを物語っている。
 同時代の傑出した芸術家であり理論家でもあった三島由紀夫の不安は、安部公房の「離散的不安」とは異なるベクトルを有していたように思われる。彼の場合、寧ろ忌まわしいのは日常性の揺るぎない堅牢さであり、自己が自己から逃れられない現実への絶えざる嗟嘆こそ、その生涯の精神的基調音であった。三島が望んだのは日常性の劇的な破綻であり、それを通じて崇高な絶対的価値との融合を果たすこと、つまり自己同一性からの脱却を成し遂げることであった。この退屈な日常が無限に持続するのではないかという不安、つまり「連続的不安」こそ、彼の拭い難い宿痾である。それゆえ日常性を破壊するような悲劇的瞬間が、要するに「断絶」が切実に希求される。だが、それは本当の意味で自己同一性を破壊する行為であるというより、謂わば「剝製」や「彫像」のような仕方で、無時間的な自己同一性を結晶させること、煎じ詰めれば「自己神格化」に向けた審美的な手続きであったようにも感じられる。自ら「断絶」そのものに化身し、普遍的な真理や正義や美しさと一体化すること、無限と合致することで、有限性という肉体的実存の条件を超越すること、それが三島の濃密なロマンティシズムの核心である。

第四間氷期 (新潮文庫)

第四間氷期 (新潮文庫)