サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(疫病の年の覚書)

新型コロナウイルスの感染爆発の第二波が峠を越えたと言われているが、恐らくは冬が来るまでに第三のピークが襲来するのだろうし、経済の悪化、雇用の悪化、消費の悪化は相変わらずで、何処まで景気が没落するのか知れたものではない。緩やかな恢復の徴候が垣間見えたとしても、感染が再燃して日々の報道が陰気な色彩を帯びれば途端に経済が停滞することは確実である。こういう一進一退の攻防は、コロナウイルスが単なる軽度の風邪ぐらいに弱毒化し、ワクチンや特効薬が開発され、我々の生活の親しい伴侶として認められるようにならない限り、完全な決着には至らないのだろうと思われる。
 私は緊急事態宣言が明けたタイミングで東京駅の構内にある店舗へ異動した。本来ならば世界的にも屈指の利用客数を誇る東京駅は、県外移動の自粛とテレワークの拡大に挟み撃ちされて青息吐息の大不況である。昨年までは全国随一の売上高を誇っていた私の配属先も、前年比で測れば寧ろ全国最底辺の低空飛行を華麗に演じている。目下の私の使命と責務は、かつて指折りの収益を謳歌していた店舗の黒字化という、何とも悲痛な命題に集約されている。

*小売業の現場で働く私には聊か縁遠い話だが、世の中はテレワーク推進の大合唱で、企業によっては賃料の高いオフィスを引き払ったり、通勤手当を廃止したり、単身赴任の辞令を解除したりして、感染リスクの低減と合わせ技で企業経営の合理化を推し進めている。人や物の移動が国家の号令に基づいて遮断されたり抑制されたりしているのだから、実体経済の悲惨な停滞は避け難い。しかも、コロナウイルスの蔓延は国際的な普遍性を備えた現象であるから、この地球上で商売を営む限り、何処にも逃げ場は存在しない。何処の企業も売上に大打撃を蒙り、経費の削減に躍起である。テレワークの推進に便乗して賃料や通勤手当などの固定費の削減を一挙に推し進めるのは賢明な判断であると言えるだろう。労働者の側でも、満員の通勤電車に週五日も揺られなければならない苛酷な生活の負担から解き放たれるのだから、有難い話ではあるだろう。だが、薔薇色の未来を安易に信じ込むのは迂闊である。物事には必ず光と闇がある。

*「出社」或いは「通勤」という労働の条件を解除した場合、如何なる風景が広がるのか。先ず日々定められたオフィスへ物理的に移動する必要がないので、公共交通機関を利用したり自動車を走らせたりすることに関わる諸々の経費が消滅する。通勤手当の廃止は、その端的な帰結である。通勤が如何に不毛な時間的空費であるかということは、これまで散々に論じられてきた社会的問題であるから、その意味では、コロナの影響に基づくテレワークの拡大は貴重な恩恵であると言えるだろう。ただ、あらゆる企業にとって、この傾向が経営合理化の抜本的な契機に繋がるとは言えない。鉄道会社、航空会社、自動車産業など、人間の移動に関連する企業にとって、テレワークは業績に対する逆風を意味する。旅行代理店、宿泊施設、駅に附随した商業施設、燃油の元売りや小売りなども深刻な悪影響を蒙る。他方、人間が動けないので、荷物の方に動いてもらおうという流れは生まれるだろうから、旅客輸送に比べれば貨物輸送の蒙る打撃は軽微で済むだろう。無論、企業活動そのものの全般的な沈滞が、貨物の総量自体を減少へ追い込むので、全くの無傷という訳にはいかない。

*テレワークの推進が、人間の移動自粛と反比例するように、情報通信の拡大を要求することは自然な帰結である。現に「Zoom」の売上高は前年比460%に達しているらしい。家電量販店ではパソコンが飛ぶように売れていると聞くし、自宅で業務を遂行する為に必要な付帯的設備、つまり家具や家電の売れ行きも良くなっているだろう。

*テレワークの推進は「居住の自由」を生み出す。通勤可能な距離という物質的条件が消滅すれば、何処に住んでいても業務に差し支えることはない。従って通勤通学の利便性を理由とした都市部への集住に対する関心は薄れ、コロナ感染のリスクに対する考慮も相俟って、郊外や地方への移住が促進される。しかし、それが直ちに地方の「創生」を齎すとは言えないだろう。地方に暮らしていても、業務の内容や目的が都心に結び付いているのならば、その人間の労働が地域社会への貢献に帰結するとは限らないことになる。また、テレワークの推進が「居住地」に基づく労働者の選別を排除するならば、その労働者は人材同士の熾烈な国際的競争に巻き込まれる虞が高い。無論、それを危惧するかどうかは、当人の資質や価値観によって異なる。

*テレワークの推進は、他者の存在を電子化=情報化する。貨幣がデジタルな数値に置き換えられるように、上司や部下や同僚は、電子的な情報に置き換えられる。同じ時間を通信によって共有することは出来るが、同じ空間を共有することはない。勿論、抽象的な「場所」を分かち合うことは出来るが、それを物理的空間の共有と同一視し得るかどうかは頗る疑わしい。電子的な繋がりしか持ち得ない相手が、自分と同じ生身の人間であることを実感として認識し得るかどうか、懸念が残る。SNSを通じた他者への陰惨な誹謗中傷の事例を鑑みれば、余り楽観視すべきではないという判断が導かれる。

*テレワークの推進は、他者との「社会的距離」(social distance)を拡大すると共に「心理的距離」(psychological distance)をも拡大する。他者と接触し、親密な関係を持つこと自体が、公序良俗に反するかのように看做される危険がある。確かに遠距離の通信技術が、他者との間に社会的回路を開拓する為の有用な手段であることは論を俟たない。また、その技術的な品質が長足の進歩を遂げていることも事実である。けれども、テレワークが他者との無用な接触を避けるという趣旨を含んでいる以上、通信技術の活用が一種の「迂回」であることは否み難い。テレワークにおける通信は、物理的な距離を超克する手段であると同時に、物理的な距離を維持する為の装置としての側面も併せ持っている。それは実体としての他者を、電子的な他者に置き換えることによって無害化し、消毒する手続きであるとも言い得るのだ。

*テレワークの推進は「職住一体化」を、つまり「労働」と「生活」との境界線を掠れさせ、溶解させる。少なくとも雇用契約で縛られた被用者である以上、両者の融合は「生活」への「労働」の侵入という形式を取らざるを得ない。一日の時間の裡、何処までが「労働」で何処までが「生活」なのか、その線引きが不明瞭なものになるとすれば、総ての「生活」の時間が「労働」への待機という性質を附加されることになりかねない。言い換えれば、あらゆる「生活」の時間が潜在的な「労働」として心理的に位置付けられかねない。それは「労働」による「生活」の内在的支配の強化を意味するだろう。我々の「生活」の随所に「労働」が不可視のウイルスのように混入するのだ。勤勉な労働者ほど、この「感染症」に対する免疫は弱体化せざるを得ない。状況を逆手に取って「怠業」に励めるならば、寧ろテレワークの推進は「労働」に対する「生活」の勝利乃至優越を意味するかも知れないが、そのような叛逆が社会的道徳に反するものとして指弾されることは概ね確実である。

*生涯未婚率が上昇を続ける現代の日本社会において、人々が配偶者と巡り逢う環境として最も巨大な比率を占めるのは「職場」であるらしい。その「職場」がテレワークを通じて解体されれば、各種のハラスメントが起こる確率は下がるだろうが、同時に親密な関係の構築される可能性も低下するだろう。つまり、テレワークの推進は更なる未婚化、更なる少子化、更なる人口減少を齎す決定的な機運となるかも知れない。遠距離恋愛の困難に就いては誰もが知るところである。画面越しの電子的な他者を愛することが容易であるとは思えない。

*テレワークの推進は、生身の他者や物理的な現実に対する飢渇を煽るだろう。職住一体化とテレワークの拡大で、我々の生活の範囲は狭まる。そもそも移動自粛の必要に迫られて生じた変化なのだから当然である。我々は愛する人の言葉を重んじるが、同時にその肉体や行動も重んじる。電子化された他者の映像や音声は、或る写実的な言葉である。言葉も大事だが、我々は言葉だけでは充たされない。我々は言葉の彼方に対する根強い憧憬や欲望を捨てられない。我々は、記号ではない。我々は、ヒエログリフではない。