*世界は混迷の時代を迎えている。無論、混迷というものが一切存在しない時代は古今東西を通じて一度もなかったに違いないが、新型コロナウイルスの世界的な蔓延という不測の事態に蝕まれて、従来の常識や秩序や手法が音を立てて瓦解し、未来に関する見通しは不透明を極めている。日本に関して言えば、憲政史上最長の在任を誇る安倍晋三内閣総理大臣の唐突な辞意表明があり、国内総生産は戦後最悪と言われる下落を示し、郵政・鉄道・航空などの社会的なインフラに関わる大企業が悲惨な窮状に追い込まれている。長く高止まりしていた有効求人倍率は低下し、失業率は急速な悪化の途上にあり、少子高齢化及び人口減少の流れに歯止めは掛からず、2019年度の出生数は1899年の調査開始以来最低の86万5千人に留まった。
何もかもが急速な変貌の徴候を明示している。コロナの蔓延が強いる社会的な意識の変革は不可逆的なものであると一般に考えられている。特にコロナの影響は、社会における特定の階層に限って波及するものではなく、この強制的な変化と無縁でいられる人間は何処にもいない。誰もが「混迷」という時代的な宿命に犯されて意識や行動の変革を余儀なくされている。
歴史に関する勉強を始めようと俄かに思い立った背景には、こうした現実の劇的な変動が関与しているように感じられる。この数年、私は主に三島由紀夫の小説を耽読し、最近は安部公房に切り替えて、その奇想に充ちた寓話的な虚構の世界を堪能していた。しかし定期的に訪れる、もどかしいような不安に遮られて、私は安部公房の書物を閉じた。主観的な絵空事に涵って、彼是と思考を巡らせることに不穏な虚しさを覚えたのだ。
以前にも同様の症状は起きた。三島由紀夫の小説を集中的に繙読していた昨年の春先に、虚構の世界に溺れている自分自身の姿に、或いは生活に物足りなさと飢渇を覚え、もっと現実的な知識を学び、摂取すべきではないかという考えに取り憑かれたのだ。そのとき、私が小説を捨て去って取り縋ったのは、古代ローマの政治家セネカの遺した書簡体の随想や、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルの著した「幸福論」などであった。要するに「思想」や「哲学」と呼ばれる領域へ分け入って、己の無智と狭量を癒やそうと企てたのである。それでエピクロスやプラトンなど、主には古代ギリシアの古典を中心に読書を進めていったのだが(西洋の歴史的名著を読み始めると、プラトンの対話篇に関する知識がなければ理解し難い箇所が夥しいことに気付いたのだ)、段々と荷が重くなってきた。
哲学的な認識や学説は、厳密な論理による支えを鉄則としているが、その学説の総てを純然たる客観的事実として認めることは困難である。例えば、プラトンの「イデア」や「アナムネーシス」といった概念が、一個の厳密な事実であると断定することは不可能に等しい。或る偉大な思惟の様式を学ぶという意味では有益だが、その思惟の様式が客観的な事実を証明する訳ではないという印象は、私を混乱させた。つまり、哲学の世界というのは百家争鳴で、どの考えが正しくて、どの考えが間違っているのか、そもそも理非を断ずる根拠が奈辺にあるのか、よく分からなくなって疲弊してしまったのである。
もっと言えば、或る哲学者の提示した独創的な思想が、全くの虚無から創造されることは有り得ず、そこには必ず生身の哲学者が属した社会や時代の強力な影響が関与している。つまり、或る人間の示した考えの理非を、純粋に普遍的な「真理」の規矩に従って判定することは原理的に不可能なのである。例えばプラトンの信奉する「真理」とは、そのような普遍的で絶対的な「正しさ」を意味しているが、そもそも普遍的な「真理」が確乎として存在するという揺るぎない確信自体が、プラトンという生身の人間が置かれた歴史的な条件や境遇の帰結であるとするならば、果たして彼の学説の正当性を純粋なる「真理」の次元で捉えることが出来るのだろうか。
こうした考え方が「相対主義」(relativism)に傾斜していることは弁えているが、何も私は何処にも普遍的な「真理」など存在せず、総ては主観的な幻想に過ぎないと、反動的な口調で申し立てたいと考えている訳ではない。ただプラトンの考えている諸々のアイディアが正しいか否かは「真理」の次元に属する問題であり、従って様々な判定が可能であるが、少なくともプラトンがそのような考え方を懐き、社会に向かって表明したということは「事実」の次元に属する問題であると言えるだろう。附言すれば「事実」の正しさも「真理」と同じく一律に定め得る問題ではないし、そもそも「事実とは何か」という難問に取り組むのが哲学者の本領であるとも言えるのだが、何れにせよ「事実」から出発するのが合理的ではないかという考えに私は到達した次第である。
「歴史」は「事実」の総体であり、そこから如何なる考えを引き出すかは十人十色であるが、少なくとも「事実であると認められた事実」に関しては、便宜的に正しいものであると看做すことが可能である。そもそもプラトンやアリストテレス自身、自らの学説を説明するに当たっては、しばしば歴史的な事例を引いている。プラトンの考えに基づいて自分の考えを紡ぎ出すのも大いに結構だが、どうせなら彼らと対等に、同一の次元に属する「事実」と向き合って自分自身の頭で考えてみる方が合理的ではないかと思われる。無論、歴史的な事実が既に主観的な編輯の過程を経由していることは言い古された警告であるが、相互に矛盾する様々な史料を照らし合わせて妥当な推論を展開し、以て唯一の「事実」に至ろうとする専門的な努力が、無数の先賢によって試みられてきたこともまた事実である。「歴史」に学ぶということは「事実」に学ぶことと同義である。それは特定の思潮や学説に基づいて、世界を恣意的に切り取るような態度に附随する害悪を浄化する一助となる。
話は思想や哲学に限らず、文学も同様である。諸々の芸術的な作品は恰かも外界から自立した普遍的で固有な小宇宙であるかのように遇されるのが通例であるが、無論、個別的な作品も、生身の作者を通じて創出されたものである以上、諸々の歴史的条件の制約を蒙っていることは明瞭である。思想や芸術を内在的に捉えるならば、我々はそれを生み出した人々の内面に潜入する以外に、理解の方途を持ち得ない。そして内在的な共振の方法を通じて理解された思想は、絶対的な「真理」のように鳴り響いて我々の精神を眩惑する。しかし、それを歴史的な事実の断片として捉えるならば、我々は固定的な思惟の様式に拘束される危険を、少なくとも部分的には免かれ得る。「事実」は常に外在的で公共的なものであり、個人による恣意的な私有を受け付けない。つまり、私は他人の主観の内部へ移住するような読書に嫌気が差したのだろう。それでは自分の視野が適切な広がりを確保し得ないように感じられたのだろう。とりあえず今は森茂暁氏の著した『南朝全史』(講談社学術文庫)という書物を読み進めている。客観的な事実の集積を通じて、自分自身の知識や思考のレヴェルを深め、高めていきたいと思う。