サラダ坊主日記

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政治的権威の「盗用/奪還」 坂井孝一「承久の乱」 2

 引き続き坂井孝一の『承久の乱』(中公新書)に就いて、感想文を認める。

 各地に蟠踞する豪族を折伏し、屈服させる為に、文明の先進国である中国唐朝から「律令」を輸入して、中央集権的な統一国家の樹立という壮大な青写真を描いたのが古代日本の姿であるとするならば、中世期の日本は、その専制的な理想主義の腐蝕、或いは瓦解、或いは変質の過程であると言える。天皇による国家の版籍の直接的支配という律令の名目は徐々に形骸化し、有力な人臣の家門が私腹を肥やして権力を強め、天皇家自体も、血統と皇位を結び付けて考えるゆえに幾度も後継者の地位を巡った悲惨な政争を惹起した。つまり「律令」という普遍的な法規の権威よりも、それぞれの氏族の権益の方が尊重されたということだ。言い換えれば、当時の政治家たちは「日本」という包括的な単位で版籍の統治に就いて考えておらず、中央集権的な統治を可能にする意識の土壌が充分に培養されていなかったということだろう。それゆえに氏族を単位とした啀み合いが常時渦巻いて、官位官職は氏族の権益を高める有効な便宜に過ぎなくなった。彼らは「国家」という観念を持たず、専ら「氏族」や「家門」の為に権謀術数を巡らせ、軍馬を疾駆させた。その意味で、律令国家の瓦解は「日本」という包括的理念の失墜と同義である。
 中世期における院政の開始は、天皇家摂関家との政治的な綱引きを通じて生み出された変革であると言える。天皇との外戚関係を利用して政治的実権を掌握する摂関家の伝統的な手口に対して、天皇の実父であるという揺るぎない権威を利用し、天皇家の首座として政務を主宰するという方式を対置したのが院政の重要な意義である。それは皇帝による絶対的な直裁を旨とする中央集権的国家、つまり「律令」の精神の恢復であるというよりも、皇帝自身が「家門」や「血族」の論理に基づいて、謂わば「氏族」として振舞ったということの象徴的な現象ではないかと思われる。要約すれば、中世期の日本の支配層は「血縁・血統」に対する並々ならぬ執着に身を焦がし、自家の権益を増強して末永い繁栄を希求することに身命を賭していたのである。それは「国益」という理念とは隔絶した振舞いである。日本列島という狭小な島国における利権の相対的拡大ということが往古の「政治」の主要な目的であり、日本列島全体を統一的に組織して外夷に備えるという考え方は、少なくとも中世期の日本においては極めて稀薄であったように思われる(「外夷に備える」ということが喫緊の課題として例外的に浮上したのは、言うまでもなく「元寇」の時期であろう)。
 更に院政期の日本の政治的状況を複雑化する要因となったのは、所謂「武家」の台頭である。保元の乱平治の乱と相次いだ政変において、持ち前の軍事的能力を駆使して事態を解決に導いた平清盛の権勢は飛躍的に向上し、公卿の地位に列せられ、定番である天皇との外戚関係を活用して政権の中枢を領することに成功した。しかし、平家一門の驕慢な専横に不満を滾らせる氏族は数多く、清盛は彼らの叛逆を抑え込む為に後白河院の身柄を幽閉し、院政を廃絶することによって、有力な院近臣たちを国政の中枢から排除した。それに憤激した後白河院の第二皇子以仁王が、平家誅伐の令旨を発したことで、名高い「平家物語」に写し取られた治承・寿永の大乱が勃発する。平家一門を壇ノ浦に追い詰めて滅ぼした源頼朝は、後白河院から勲功を認められて東国の支配権を名実共に確立した。
 源頼朝は、御家人との強固な主従関係を堅持することで、強大な軍事力を掌握する「棟梁」の地位を確保した。平家掃討及び源義経征伐を名目に、守護・地頭を全国へ設置して国家の軍事・警察に関する職権を独占した頼朝は、征夷大将軍に補任され、飽く迄も朝廷の権威に対する臣従の建前を遵守しながら、源氏一門の権益の強化に励んだ。彼は武士の頂点に鎮座することで、天皇をも圧倒する強大な権力を獲得したのである。
 けれども、頼朝嫡流の将軍が三代で途絶え、特に後鳥羽院と親交の篤かった右大臣実朝が暗殺されて以後、鎌倉の政情は不安定化する。固より鎌倉幕府の権威は、平家を誅伐し、征夷大将軍に補任された源頼朝嫡流に対する御家人たちの圧倒的な忠誠によって支えられている。その崇高な血統の途絶が、数多の武士を糾合する超越的象徴の欠損を意味することは論を俟たない。
 鎌倉の混迷は、公武の宥和と協調を阻害する重大な悪弊となる。執権の地位にあった北条氏は、京都から摂家将軍(本来の希望は「親王将軍」つまり皇族である)を迎えて擁立し、幕府の威信を維持することを試みた。北条氏の政略は、要するに京都の公卿が駆使する摂関政治の方式の踏襲である。当初は源氏将軍を輔弼する立場として、後には摂家親王将軍の権威を活用することで、幕政の実権を掌握するという戦略を彼らは弄した。空洞化した権威の光輝に紛れて実利を得るというのは、古代から連綿と続く日本の政治的伝統なのである。執権のみならず、征夷大将軍である源頼朝嫡流にしても、天皇の威光に臣従することで自らの権威を強化した点は同様である。
 承久の乱は、北条義時の権勢を排除し、幕政を支配しようと企てる後鳥羽院院宣によって火蓋を切った。著者は、後鳥羽院の本意が「倒幕」ではなく、飽く迄も北条義時個人の排除に向けられていたことを強調する。事実、朝廷が鎌倉の軍事力に対する重度の依存を病んでいたことは明瞭である。そもそも平氏以来の武家の台頭は、朝廷が彼らの軍事力に対する依存を深めていったことと密接に相関している。重要なのは、鎌倉が朝廷の意向に対して従順であるかどうかという点であって、例えば後鳥羽院が北条氏による親王将軍の東国下向の請願に難色を示したのは、それによって鎌倉殿の勢威が高まり、朝廷への臣従という建前が形骸化して、東国が謂わば軍政国家として京都の朝廷から分立してしまうのではないかと懸念したことに由来すると思われる。