サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(歴史と虚構)

*最近は日本史に関する初学者向けの書物を渉猟していたが、徐々に飽きてきた。石原比伊呂の『北朝天皇』(中公新書)や亀田俊和の『観応の擾乱』(中公新書)などを読み、それなりに向学心は満たされるのだが、夥しく飛び交う人名や地名と、その錯綜した関係性が、淡々とした事実の羅列だけでは容易に頭へ浸潤しない。何より最大の問題は、私自身が直接に歴史的な文献に接し、それを読みこなす能力を欠いているという点だ。歴史的な事実は、明瞭に確定された体系として完璧に確立されている訳ではなく、限られた史料を頼りに、歴代の研究者たちが綿密な読解と適切な推論に基づいて組み立てた想像的な結論の集積として存在している。従って私に出来ることは、研究者たちの読解の成果を受け取ることだけであり、自ら史料の読解を通じて個人的な見解を提出するという行為には一指も触れることが出来ない。その隔靴掻痒の感覚が、私の情熱に冷水を浴びせる。熱心に読み耽れば、それなりに歴史的な知識を身に着けることは出来るが、結局は「批評の批評」という構造を脱け出すことが出来ないし、しかも研究者による「批評」の整合性や真贋を独自に判定することさえ儘ならない。こうした状態を、真実の意味で「読書」と呼称することが許されるだろうか。
 相手が若しも「小説」ならば、少なくともそれは「一次史料」であり、私の個人的な読解の当否は兎も角、原典から思惟の原料を汲み取るという当たり前の営為を実践していることは揺るがない。力量の差異を捨象すれば、数多の学者や批評家と対等の立場で「作品」に接していると言える。ところが歴史における「文献」は、私の智力では文字を判読することすら叶わないのだ。そして私には、古語を学んで本物の文献を読みこなす努力に挑もうという積極的な衝迫が宿っていない。これでは、皮相な知識を蒐集するだけの徒労に帰着しかねない。

*もう一つの問題は、良くも悪くも私の脳味噌が「虚構」に親和しているという点である。無論、歴史の世界にも「虚構」を読み取ることは容易である。古今東西を問わず、厖大な数の「歴史小説」が綴られてきた事実を徴すれば、歴史の世界が「虚構」と極めて密接な関係を有していることは容易に立証し得る。しかし、恐らく歴史の研究とは、過去の「事実」を何らかの筋書きに当て嵌めて要約することではないし、奔放な「虚構」を構築することでもない。歴史家が目指すのは、失われた「事実」の厳密な再生であり、単一の視座に基づいて「事実」を裁断するのではなく、相互に矛盾し続ける「事実」同士の適切な関係を模索し続けることである。
 無論、文学の研究においても同様の姿勢は重要な意味を持つ。作品の内部には、複数の相互に鬩ぎ合う異質な要素が編み込まれており、読者の一元的な読解に抵抗し、安易な要約を拒絶する。しかしながら、根本的な差異として挙げ得るのは、文学作品が「虚構」であり、「事実」による呪縛と無縁であるという条件である。歴史の研究の現場において、僅少な史料に基づいて飛躍的な推論を組み立てることは、恐らく事実の歪曲として指弾される罪深い行いだろう。しかし、文学の世界においては寧ろ、その飛躍的な推論こそ無上の価値を帯びるのだ。「事実」の単純な反映や復刻は、文学的価値の尺度から眺めるならば堕落であり、罪悪である。文学は、単なる「事実」を貴ばない。人間が「事実」だけで生きられるならば、きっと文学は無用の長物である。史実に題材を求めた作品が、専ら史実の厳格な再生であることを命じられるのならば、そのとき文学の固有性は決定的に毀損されるだろう。端的に言ってしまえば、文学とは「妄想」の表象である。その「妄想」を読解する愉しみは、厳格な「事実」の摘出の裡に存するのではない。「妄想」自体の内在的な構造を究明することが、文学に触れる歓びの源泉である。我々は誰も三島由紀夫の「金閣寺」を読んで、一九五〇年に発生した金閣寺放火事件に関する精確な「事実」を知ろうとは思わないだろう。三島は綿密な取材に基づいて創作に取り組むことで知られた作家だが、その綿密な取材は作品の裡に厳密な「事実」を蘇生させる為ではなく、専ら飛躍的な妄想の原料の蒐集の為に行なわれたものである筈だ。例えば水上勉の「金閣炎上」と比較して、三島の「金閣寺」は「事実」を離れた独善的な「妄想」の縷述に過ぎないと批判するのは、そもそも無益な論難である。文学とは作家の「妄想=幻想」を嘆賞する営みなのである。明日から再び、安部公房の小説の繙読を再開しようと考えている。