サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主風土記 「勝浦・小湊・大多喜」 其の一

 過日、妻子に義母を加えた四人で南総地方へ一泊二日の旅行に出掛けたので、その覚書を認める。

 此度の企図の発端は、幸運にも妻が引き当てた「ディスカバー千葉」の宿泊者優待キャンペーンであった。一人当たり一泊最大五千円の割引が受けられる観光促進の企画で、国の推進する「Go To Travel」キャンペーンとの併用も可能である。九月に銚子へ旅行したので、今年はもう何処にも出掛けない積りでいたのが、折角の幸運を屑籠へ投げ入れるような真似は出来ないという妻の堅固な決意に絆されて、仕事の休みを調整して出立したのである。
 当日は早朝に起きて、千葉シーサイドバス京葉線海浜幕張駅へ向かった。外房線特急「わかしお」に搭乗する為である。見込みより早めに着いたので、駅前のタリーズで珈琲を一杯飲んだ。陽射しが注いでいても、早朝の風は随分と冷たい。改札口で義母と合流し、プラットフォームで電車を待つ。到着した特急列車は、案に相違して混み合っていた。油断して指定席券は買わずに済ましていたから焦ったが、辛うじて四人向い合わせで陣取ることに成功した。平日の朝、単身の男性客が目立つのは、仕事絡みの移動なのだろうか。次の蘇我駅で更に乗客は増えたが、その大半が茂原駅で下車していった。茂原は天然ガスの採掘が盛んな土地柄であるから、関係する乗客も多いのかも知れない。
 大原を過ぎ、終点の勝浦駅で降りた。勝浦の御当地キャラである「勝浦カッピー」や雛人形の立派な段飾りと一緒に娘の写真を数葉撮る。表へ出ると、陽射しには恵まれているのに吹き抜ける風は酷く冷たかった。駅前のロータリーには数台のタクシーが停り、暇を持て余した運転手たちが気儘な雑談に興じている。地味な観光協会に立ち寄り、タクシーを雇って「かつうら海中公園」へ向かった。海辺の途を走り、鵜原駅の前を過ぎて、短いトンネルを幾つも潜り抜ける。到着したタクシーは、路傍へ寄ろうともせず、車道の真ん中に堂々と停車した。それくらい交通量が乏しいのだろう。
 資料館の裏手へ回ると、幅の狭い入江になっていた。年配の男性が箒を使って、砂浜へ通じる石段を掃いている。雲が切れる度に、海面が白っぽくきらきらと輝く。娘と手を繋いで波打ち際まで迫った。寄せて返す度に、波頭と砂浜との境目が変動するので、思わず靴の爪先を濡らしそうになり、その絶妙なスリルに娘は上擦った笑い声を立てて躁いだ。
 チケットを買って入り口の長いトンネルを通り抜けると、背の高い海食崖が眼前に聳え立った。目当ての海中展望塔へ通じる廻廊から、足許の海面を覗き込むと、明らかに人工と思われる矩形の石棺のような岩場が幾つも視野に入った。どうやら生簀であるらしい。
 廻廊を更に曲がると、行く手に海中展望塔の偉容が出現した。沖合へ向かって直線に伸びた通路の先に屹立する白亜の塔は、見慣れない奇景であった。一面の大海原に、見捨てられた不吉な神殿が浮かび上がっているかのようだ。或いは、水棲人類の秘密基地のようにも見える。在るべき筈のない場所に存在する奇妙で静謐な塔。
 入口のブースに眼鏡を掛けた若い男性が控えて、チケットの捥りを担っていた。狭隘な螺旋階段を慎重に踏み締めて、海面の下に封じられた世界へ潜っていく。薄暗い空間に、潜水艦を想わせる複数の円窓が穿たれ、そこから海中の光景を硝子越しに眺めるというのが海中展望塔のセールスポイントである。ラピスラズリのような小魚の群れが、娘の鼻先で優雅な円舞を演じている。餌を容れた金網の籠が幾つか海中に吊るされていて、夥しい数の魚が互いに競り合いながら、貪婪な食欲を充たすべく不気味な遊泳を重ねている。のんびり泳いでいるのではない、生物学的な本能に支配された魚の身も蓋もない獰猛な動きは、余り快い眺望ではなかった。
 展望塔から引き返す廻廊の途中で娘が転んだ。大きな泣声が潮風に紛れて響き渡った。すっかり気分を損ねて自力での歩行を拒絶し、鵜原駅まで移動する間、十六キロほどもある娘を鞄と一緒に抱えて歩く羽目に陥った。陽射しが強まり、総身が汗に濡れた。辿り着いた駅舎は古く、自動改札もない。千葉県内の主要な路線に乗れるフリーパスを持っていたが、念の為、年季の入った旧式の券売機のような筐体のボタンを押し、乗車証明書という小さな紙片を発券してパスケースに挟んでおいた。その頃には娘の機嫌も復調し、手を繋いで階段を歩き、ログハウス風の待合室で安房小湊へ向かう外房線普通列車を待った。偶々居合わせた見知らぬ年配の女性が、元気を取り戻して気儘に燥ぎ回る娘の姿を、観音様のような微笑を湛えて見守っていた。義母の鞄の中で飲料のペットボトルが水漏れを起こし(蓋がきちんと締まっていなかったらしい)、一寸した騒動になって、それさえ娘には愉快な椿事であるらしい。益々上機嫌に大声で喋ったり笑ったりする。その度に観音様が微笑を深める。長閑な光景である。遂に観音様が口を開き、妻に娘の年齢を尋ねた。四歳だと答えると、随分大きく見えると驚いておられた。実際には、体格よりも態度の大きい娘である。
 やがて、電車が遅れてますねと観音様が言った。携帯で調べると、埼京線内の信号点検の影響で広範な区域に電車の遅延が生じているらしい。縦横無尽の相互乗り入れ・直通運転は便利だが、事故の皺寄せが遠方まで及ぶのは不便である。微かに聞こえてきた構内放送を頼りに、電車の気配を感じて席を立った。トンネルの闇から、外房線の車体が緩やかに出現した。車内は閑散としている。観音様も同乗しておられる。ボックス席に陣取った年配の女性三人組が、上昇する日経平均株価や、金の売買といった腥い会話に耽っているのが聞こえてきた。その途中、安房小湊で饅頭を買わなきゃと一人の女性が口走った。そうか、安房小湊には名物の饅頭があるのかと仄かに嬉しく思いながら、電車の単調な振動に誑かされて、知らぬ間に娘と並んで甘美な転寝の淵に沈んでしまった。