サラダ坊主日記

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「意志」という名の欺瞞 ラ・ロシュフコー「箴言集」

 十七世紀フランスの所謂「モラリスト」の一人として名高いラ・ロシュフコーの『箴言集』(講談社学術文庫)を読了したので、感想の断片を書き留めておく。

 人間の生活や行動、歴史的な故事を調べて独自の知見を引き出すという著述の骨法は、特段モラリストに限られた手法ではない。彼らが断章や箴言といった形式を好み、例えばアリストテレスのような体系的記述を好まなかったということは確かに一個の事実であるが、そもそも人間が自らの思索を書き留める際の文学的様式は様々であり、殊更に「モラリスト」という枠組みや範疇を自明の秩序として珍重する必要は稀薄であると言えるだろう。執筆の様式には各自の個性が自在に反映されていればそれで良い。「モラリスト」というラベリングで何事かを説明し得たような錯覚に陥るのは、私の望む事態ではない。
 ラ・ロシュフコーの書き遺したテクスト、夥しい数の「箴言」(maxim)と簡素な哲学的随筆は、原則として人間の本性を「堕落」という条件の下に定義しているように思われる。「道徳的考察」の劈頭に掲げられたエピグラフ「われわれの美徳とは、たいていの場合、偽装された悪徳にほかならない」(『箴言集』講談社学術文庫 p.17)が鮮明に告示しているように、彼は人間の根源的な清浄を是認していない。如何に崇高な美徳に鎧われた行為や発言を目の当たりにしても、その根底に「自己愛」という牢固として抜き難い衝迫の働きを見出すのがラ・ロシュフコーの認識の特徴である。一見すると紛れもない善行と感じられる犠牲的な営為さえ、煎じ詰めれば旺盛な「虚栄心」の齎した果実に過ぎないと彼は診断する。このペシミスティックな人間観は、訳者の前書きによれば、所謂「自力作善」による意志的な救済の可能性を徹底的に否認するジャンセニスムの濃厚な影響下に生じたものであるらしい。無論、他者からの影響のみならず、彼自身の味わった苛酷な政治的=軍事的経験の記憶が、そうした人間観の醸成と構築に決定的な寄与を成したことは確実であろうと考えられる。
 全体を通して言えることは、恐らくラ・ロシュフコーという人物は、人間に備わった謹直な「意志」の力や価値、その決定的な意義に、頗る深刻な疑念を有していたのだろうということである(「人間は、何かに動かされているときにも、自分から行動していると思い込むものである。知性によってある目的に向かっているつもりでいても、いつの間にか、心が別の目的に向かわせている」p.25)。理性的な意志の力による自己の統御を金科玉条としたストア学派の重鎮セネカに対する批判的言及も、そうしたラ・ロシュフコーの思想的特性を裏付けているように思われる。彼は理性的な判断に対する信頼さえも棄却している訳ではないが、少なくとも人間の主体的な意志が人生に及ぼす影響の多寡に就いては、禁欲的な鑑定結果を堅持したのである(「われわれは、自分の理性が命ずるままに生きようとしても、それだけの力がない」p.25)。
 ラ・ロシュフコーは、人間の主観的な思い込みに重点を置く態度を斥け、人間の行動を支配する情念や欲望の構造を客観的な仕方で見究めることに思索の焦点を合わせた。人間が自分自身の主体的な意志の権限を駆使して、自分自身の行動や生活を随意に統御し得るというストイックな考え方を、彼は明確に拒絶したのである(「自分の情念を抑えることができる場合もたしかにあるが、それは、われわれの意志が強いからというよりも、むしろ情念が弱いからである」p.38)。意志的な克己心の奨励は、主観的な信仰に過ぎず、それを事実として主張することは傲慢な虚栄心の帰結に他ならない。ストア学派は、理性による自己統御に加えて、外部的な条件による自己の制約を否認し、主体的な超越に価値を見出したが、そのような人間観は虚妄でしかないというのが、ラ・ロシュフコージャンセニスムによる思想的診断の結果なのである。
 同時に彼は、あらゆる人間の行動を無意識の裡に支配し汚染する「自己愛」の作用に着目した。如何なる美徳も、その裏側に潜在的な悪徳を抱えているという観察は、彼の人間観及び世界観の基調を成す重要な命題である。言い換えれば、彼は「自己評価」というものの極めて曖昧で不適切な性質を強調することに意を尽くしたのである。自分の思い通りに自分は行動することが出来るという発想は、ストア学派の意志的な克己主義・禁欲主義を成立させる根源的な土壌である。しかし、ラ・ロシュフコーは「意識」と「現実」との間の齟齬や断層に読者の注意を喚起する。他者は固より、自分自身でさえ、主観的な意識の専制的命令に一から十まで服属することは有り得ない。人間の主観的な自己評価ほど、身も蓋もない現実の状況から乖離しているものはない。それゆえ、彼にとっての「思索」の意義は、両者の断絶を少しでも補填し、精確な自己理解を樹立することに捧げられていたのではないか。空疎な過信によって現実から遊離するのではなく、自己愛と虚栄心に汚染された歪んだ視野を浄化すること、それは無論、自己愛及び虚栄心という凡夫の度し難い性向そのものの廃絶を意味する訳ではない。寧ろ、廃絶し難い醜悪な現実を凝視し、明晰に解剖することが、セネカを論難するラ・ロシュフコーの本懐であり野心であったと思われる。

箴言集 (講談社学術文庫)

箴言集 (講談社学術文庫)