サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

内面的自由の保護 ジョン・ロック「寛容についての手紙」

 十七世紀の暮れに西欧で出版されたジョン・ロックの『寛容についての手紙』(岩波文庫)を読了したので、感想文を認める。

 私がこの書物を繙いたのは、その直前にルキウス・アンナエウス・セネカの『怒りについて』(岩波文庫)を読んだことが影響している。カリギュラやネロといった、歴史に名を残す暴君の在世を有力な廷臣として生き延びた(セネカはネロの命令で自裁を遂げているので、厳密に言えば生き延びることに失敗している)経験に基づいて、彼は「怒り」という情念の齎す甚大な破滅的弊害を営々と縷説している。その切実な論述は一貫して「怒り」の価値の全面的な否定に捧げられている。彼は自分自身を「正義」の人間と看做す独善的驕慢が、他者への憎悪と敵意を増殖させ、途方もない「怒り」を炸裂させ、暴走させるのだと説き、己の罪過を想い出して不寛容を抑止するように勧告している。
 セネカの論説に感銘を受けた私は、書棚で埃を被っていた「寛容についての手紙」に手を伸ばした。成る可く多様な古典に触れようという考えが、目下の私の読書における方針であるから、書物の系譜的飛躍は大いに結構である。「寛容」という言葉に惹かれて開いたジョン・ロックの短い著書は、一般的な意味における「寛容」を扱ったものではなかった。それは宗教的信仰における「寛容」を巡って綴られた「政教分離」の論説だったのである。
 ロックは「国家=政治的共同体」と「教会=宗教的共同体」との峻別を推奨し、両者の境界線を明確に定めて棲み分けを維持することの重要性を説いている。こうした「政教分離」の主張が殊更に強調されるということは、裏を返せば、両者の癒着が当時の西洋においては常態化していたことを示唆している。世俗的権力と宗教的権力との剣呑な婚姻が、宗教的信仰の相違に対する妥協を知らぬ不寛容を醸成する土壌として機能していたのである。実質的な「神権政治」(theocracy)の横行は、信仰の内実次第で政治的利害が左右されるという状況を慢性化させる。如何なる様式の信仰を堅持するかによって、自己の現世的な損益が規定されるのである。宗教的信仰と現世的利害が緊密な連動を強いられることによって、信仰における内面的自由は毀損され、宗教的権威は不健全な膨張と増大に陥り、思想に対する暴力と迫害が地上を蹂躙する。異端審問や宗教戦争における驚嘆すべき不寛容の氾濫は結果として、宗教的信仰に内在する本来的価値の頽廃を招いたのである。
 こうした血腥く混乱した情勢を打開する為の処方箋としてロックが提示したのが「政教分離」の原則である。彼は世俗的権力と宗教的権力との無節操な野合を批難し、為政者による宗教的信仰への介入を拒絶する。それは「内面的自由の保護」という理念に要約され得るだろう。そして、為政者の権力が及ぶ範囲を物質的領域に限定することによって、信仰に対する迫害や弾圧が正当化される根拠そのものを廃絶しようと試みるのが、ロックの訴えの主要な論旨である。こうした考え方は、個人の内面的自由を保障するという意味で、近代的な個人主義自由主義を醸成する培地の役割を担うものと看做すことが出来る。また、ロックの論述する「政教分離」の原則は、狭義の宗教的信仰に留まらず、人間の思想的自由全般の保護という観点にまで敷衍して適用し得るものである。地上に暮らす誰一人として、たとえ国家の最高権力者であっても、他者の内面的自由を、つまり「魂の自由」を侵犯する権利は持たず、特定の思想信条に他者を腕尽くで服属させる類の営為は禁圧されている。このように、ロックの論じる「寛容」の理念は、極めて広範な領域に妥当する普遍的射程を備えているものと解されるべきである。
 この「政教分離」という理念を別の言葉に置き換えるならば「公私混同の忌避」ということになるだろう。公共的領域と私的領域、パブリックな分野とプライヴェイトな分野とを厳格に区分けすることが、他者に対する寛容の素地を育む。こうした問題意識は、現代の日本社会において人々の高い注目と関心を集める「ハラスメント」(harassment)という概念にも接続している。代表的な「パワー・ハラスメント」(power harassment)及び「セクシャル・ハラスメント」(sexual harassment)は、主として職場における位階秩序に附随して生じる個人への不当な抑圧を意味しているが、こうした事象の齎す弊害は「公私」の境界に対する鈍感な認識によって増幅される。業務上の権力が、個人の私的領域にまで影響を及ぼし、その内面的自由を毀損する場合に「ハラスメント」と呼ばれる暴力的侵害の発生が認定される。家庭における「配偶者間暴力」や「児童虐待」も同様に「ハラスメント」の類型の一種に挙げられる。つまり、何らかの社会的権力を行使して個人の内面的自由(「内面的」という用語は必ずしも「精神的」という意味ではない。例えば個人の「肉体」における主権は、個人の「内面的自由」に帰属すると考えるべきだろう)を侵害する行為全般が「ハラスメント」という概念に帰着する数多の事例を成すのである。誰も思想信条を主たる理由として裁かれる義務は負わず、その社会的行動に関してのみ処罰を受ける。尚且つ、社会的行動への処罰は、その行動が他者の社会的権利を毀損する限りにおいて執行される。国家的為政者の権力は専ら、個人の社会的利益の保護に限定して行使されるべきものであるからだ。

寛容についての手紙 (岩波文庫)

寛容についての手紙 (岩波文庫)