サラダ坊主日記

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「美徳/幸福」を巡る、華麗なる論争 ロレンツォ・ヴァッラ「快楽について」 1

 目下、十五世紀イタリアの人文主義者ロレンツォ・ヴァッラの『快楽について』(岩波文庫)を繙読している。以下に、その感想の断片を認める。

 ロレンツォ・ヴァッラが本書を著した意図は、当人の序文において明確に示されている。キリスト教の擁護とストア学派の弾劾である。その為の方策として、彼は一般にストア学派の好敵手と目されるエピクロスの学統を称揚するという手段に訴えた。ヴェージョ(エピクロス学派)とカトーネ(ストア学派)との論戦は、その弁論の比重において、ヴェージョの陣営がカトーネを圧倒している。彼は縦横無尽に弁舌を弄し、数多の歴史的事例を持ち出し、あらゆる角度からストア学派の教義を批判し、その空疎な矛盾を剔抉している。こうした対話篇の構図を適切に理解する為には予め、エピクロス学派ストア学派との教説の差異に就いて基礎的な知識を準備しておく必要があるだろう。
 ストア学派は、四囲の自然を悉く「必然性」の連鎖として解釈する。それは一見不条理に見える自然及び宇宙の多彩な現象の裡に、終始一貫した「論理」(logos)の関与を見出す態度であると言い換えることが出来る。彼らの世界観の重要な枢軸の一つとして「決定論」(determinism)を挙げることは、ストア学派に関する一般的な理解に反するものではないだろう。森羅万象は事前に定められた必然的な因果律に従って生起する。それゆえ、この世界は「理性」或いは「意志」を内在していると看做され、人間の「徳」は四囲の世界に内在する必然的意志との合致を目指すものであると結論される。ストア学派の賢者たちは、世界を支配する普遍的な摂理、つまり「ロゴス」(logos)に合致することが人間的幸福の揺るぎない礎石であると考えたのである。自らの理性を正しく統御し、普遍的摂理を理解し、それに即した言行を堅持することによって、如何なる艱難にも誘惑にも屈することのない「アパテイア」(apatheia)の境地に達することが、彼らの倫理学的な目標であった。
 このような見地から眺めれば、人間の懐く種々の「情念」(pathos)は悪しき雑音のようなものとして貶下されざるを得ない。それは「普遍的摂理=ロゴス」の精確な把握を妨礙する危険な逸脱として定義され、排斥される。快楽、苦痛、欲望、恐怖といった「情念」に囚われ、自らの主権を奪われることは直ちに「理性の倒錯」を含意し、延いては普遍的摂理からの疎隔を意味する。彼らは何よりも「動揺」を忌み嫌う。外在的な条件に左右されて「恒心」(constantia)を擾すような態度は、彼らの信奉する倫理学的な規範に鋭く背馳する。何故なら、理性の適切な働きを媒介として普遍的摂理に合致しているならば、恒心の擾乱など起こり得ないからである。堅牢な恒心に何らかの動揺が持ち込まれるのは、人間的理性とロゴスとの間に不協和が生じていることの確たる証拠であると言える。
 情念をノイズとして断罪し、棄却することは、森羅万象を貫く普遍的摂理=必然性の実在を承認する考え方から導き出されるコロラリーである。総てが揺るぎない必然的因果律に従って生起するならば、四囲の現実を殊更に歓んだり嘆いたりすることには意味がない。寧ろ、そうした一喜一憂に眩惑されることは、普遍的摂理の精確な把握に対する障碍として作用し得る危険な態度である。情念という不確かで移ろい易い心理的現象に拘泥することは、現実に対する正しい認識の阻害を意味する。それゆえ、ストア学派は専ら「理性」の適切な運用に固執し、時には「美徳の不幸」さえ齎し得る普遍的摂理の絶えざる甘受を目指す。それは現実に対する怠惰な屈従を意味するのではなく、現実を貫く普遍的摂理との一体化、融合を意味する。彼らは如何なる艱難辛苦も涼しい顔で受け容れて動じないことを徳性と看做した。不愉快で悲惨な現実が悉く「摂理」の賜物であるならば、それを安んじて受け容れるのが賢者の択ぶべき振舞いである。ストイックな賢者たちの幸福は「摂理」との完全なる合致の裡に存する。その意味では、彼らは現実に対して隷属的であるように見えるが、厳密に言えば、彼らは現実に対して超越的であることを望んだのである。
 尤も、こうしたストア学派の考え方は、感性的現実を仮象として斥けて蔑んだプラトンほどに極端な超越性を志向するものではない。プラトンは感性的に把握される事物を、知性的に把握される「実有」の不完全な模像に過ぎないと定義した。感覚が捉える対象は悉く「虚像」に過ぎず、普遍的真理とは異質な幻想でしかない。彼は理性によってのみ捉えられる事物の実相を「イデア」(idea)と呼び、尚且つそれを本来の実体と看做した。専ら理性の働きを重んじるという意味では、ストア学派の教説と、プラトンが創始したアカデメイア学派の見解とは共通しているように見える。しかし、ストア学派は「イデア/個物」の特殊な二元論を容認せず、普遍的摂理は専ら感性的現実の内部において展開されると考えた。彼らが四囲の現実に対して超越的であろうと試みたのは、プラトンのように感性的対象を虚像と看做したからではなく、現実を支配する「摂理」(logos)に忠実であることを望んだ為である。プラトンは「摂理」を感性的世界の外部に措定したが、ストア学派は感性的世界の内部に表出される「摂理」だけを信じた。何れにせよ、彼らが理智の権能を極度に称揚して、普遍的摂理の把握こそ幸福の源泉であり、人間的徳性の完成に他ならないと考えたことは事実である。

快楽について (岩波文庫)

快楽について (岩波文庫)