サラダ坊主日記

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「美徳/幸福」を巡る、華麗なる論争 ロレンツォ・ヴァッラ「快楽について」 2

 十五世紀イタリアの人文主義者ロレンツォ・ヴァッラの『快楽について』(岩波文庫)と題された対話篇を巡って感想の断片を電子的画面に刻み込む。

 ストア学派は如何なる外在的条件にも拘束されない不動の恒常的自己の確立を目指し、彼らの言葉でapatheiaと称される境涯を美徳の極致と看做した。情念や欲望を排除し、それらを理性の病変した形態と考えて貶下し、専ら世界を理性的な現象と捉えて、自らの有する理性を重ね合わせ、揺るぎない一体化を図った。彼らにとっては、如何なる感情にも揺さ振られないことが幸福の定義なのである。それゆえに彼らは禁欲主義者のラベリングを施され、外在的条件に拘束されない自己の内面的超越を目指す求道者の風格を認められた。
 エピクロスとその学統を継承する人々は、ストア学派の展開する教説と尖鋭な対立を示す。両者の教説は相互に、あらゆる点で背馳している訳ではないが、彼らが古代ギリシアに共通する伝統的世界観から銘々に異なる帰結を導き出したことは疑いを容れない事実である。
 エピクロスに由来するepicureanという英語は「享楽主義者」を意味する。ストア学派に由来するstoicismという英語が「禁慾」や「克己」を意味するのとは対蹠的である。実際、エピクロス学派に対して投じられてきた歴史的な誹謗中傷は、専らepicureanを不道徳なhedonistとして排撃するものであり、彼らが「最高善」に値する事象として「快楽」を選択したことに熾烈な批難を寄せるものである。ストア学派は最高善を「美徳」と定義し、自然の必然的=理性的法則と合致することを最も理想的な様式であると認めた。そのような見地から眺めれば、エピクロスの唱える「快とは祝福ある生の始めであり終りである」(『エピクロス―教説と手紙』岩波文庫 p.70)という考え方は唾棄すべき惰弱と思われただろう。無論、エピクロス自身、あらゆる享楽を貪欲に追い求めるべきだと訴えている訳ではないと注意を促している。彼の求める「快」とは「肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されないこと」(『エピクロス―教説と手紙』岩波文庫 p.72)であり、無際限な享楽への耽溺を推奨しているという四囲の論難は曲解に基づいているのである。
 ストア学派の目指すapatheiaとエピクロス学派の求めるataraxiaは殆ど同一の境地を目指しているように聞こえる。けれども、ストア学派が理性による情念の克服と抑圧を志向し、謂わば人間という個体を純然たる「理性的存在」に還元しようとするのに対し、エピクロス学派は「感覚」を重視し、現に苦痛が存在しないという状態への帰着を図る。ストア学派は苦痛の感覚によって動揺することを拒絶し、従って理性による忍耐や克己が最も枢要な徳目として重んじられることとなる。しかし、そうした不合理な痩せ我慢をエピクロスは称揚しない。エピクロスにとって感覚的=経験的真実は否認されるべきものではない。hedonistと悪しざまに批難される彼の学統が過剰な享楽を戒めるのも、それが感覚や情念への従属を意味するからではなく、快楽と引き換えに生じると予測される苦痛が厖大である為である。stoicismは快楽そのものを理性に反する悪しき衝迫として断罪するが、epicureanは感性的な快楽を否定しないし、苦痛の感性的欠如を何よりも祝福する。ストア学派は感性的認識に対する軽蔑というplatonismの伝統を継承しているように見えるが、エピクロス学派は寧ろ感性的認識を経由しない真理の妥当性を信頼しないのである。
 ヴェージョによるカトーネへの徹底的な反駁は、ストア学派の重んじる理智的な「美徳」への懐疑に基づいている。感性的な快楽(肉体的なものであれ、精神的なものであれ)を否認し拒絶するstoicな「賢者」の美徳を、ヴェージョは空疎な欺瞞として斥ける。結局のところ、賢者たちは「美徳」を通じて「名誉」を得るという快楽に淫していたに過ぎないのではないかというのが、彼の主張である。極端に矮小化して言えば、stoicな賢者たちの求道的な生き方を支える動機は、旺盛な虚栄心でしかないと彼は論じているのである。
 ストア学派は、理性的=必然的法則に従って生起する「自然」を「神」と同一視した。それゆえ「自然」の摂理に即して生きることで「恒心」(constantia)が保たれ、揺るぎない幸福に達すると考えた。他方、エピクロス学派は「自然」の現象を神意と結び付け、相関させることに否定的な見解を持している。彼は神々の存在を否認する訳ではないが、神々と下界との密接な聯関に就いては明確に異議を唱える。例えば稲妻を「神の怒り」と同一視するような神話的=宗教的解釈を、エピクロスは謬見或いは妄想として斥ける。また、感覚的=経験的観察を経由しない解釈や見解は総て「仮説」に留まるべきであり、純然たる思弁によって不朽の真理を会得しようとするplatonismの方針に対しては明瞭な反発を示す。感性的認識に対する信頼の有無は、西洋の思想的伝統における重要な分水嶺の役割を担っている。

快楽について (岩波文庫)

快楽について (岩波文庫)