サラダ坊主日記

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社会的盟約の擁護 ジークムント・フロイト「幻想の未来/文化への不満」 1

 オーストリアの輩出した偉大な精神科医ジークムント・フロイトの晩年の論文を収めた『幻想の未来/文化への不満』(光文社古典新訳文庫)に就いて、感想の断片を認める。

 フロイトによって創始された「精神分析」(psychoanalysis)の壮大な体系は今日、数多の批判に晒されている。フロイト自身は精神分析の体系を科学的な思考の産物と看做していたが、その臨床的な有効性には疑問符が附されている。彼の思弁が、実際の臨床的経験を材料として編み出されたものであることは事実だが、そこから導き出された様々な抽象的仮説が、厳密な科学的事実に即していると断定し得る根拠は薄弱であるようだ。とはいえ、彼が生み出した多くの心理学的概念は後世に甚大な影響を及ぼし、特に「無意識」という着想は日常的な用語として受容されるほどに、人々の精神の内部に普及している。

 「幻想の未来」と題された簡素な論考は、主として「文化の効用」と「宗教に対する批判」の二つの主題を扱っている。フロイトにとって「文化」とは「人間の生を動物的な条件から抜けださせるすべてのものであり、動物の生との違いを作りだすもの」(p.12)を意味する概念である。彼が「文化」に関して懐いている問題意識は、本来、人間の生存を保護する為の盟約として設計された文化的制度や規範に、被保護者である人間が攻撃的な不満を懐かずにいられないのは何故なのかというものであり、宗教はそうした文化的規範の強力な典型に数えられている。
 如何なる文化的規範も存在しない環境においては、つまり「自然状態」(natural state)においては、人間は自己の放埓な欲望を規制せず、四囲の他者の利害に配慮することもない。それは同時に自己自身も他者から庇護されず、如何なる連帯も構築し得ない苛酷な境遇に置かれることを意味する。社会的連帯の不在は、自然状態にある人間をそれぞれ孤立したエゴイズムの監獄に幽閉し、無慈悲な弱肉強食の摂理を瀰漫させ、遅かれ早かれ人類の破滅を齎す。それゆえ、人間は社会的連帯の盟約を締結し、共同体の規範に従属して自己の欲望を節制することを通じて、心身の安全の確保を図るのである。このように考えるならば、あらゆる社会的連帯は、各自の綜合的な幸福に寄与するものとして存在する。にも拘らず、社会的連帯に反撥し、文化的規範の否定と破壊に対する邪悪な欲望が、人類の間に普遍的な悪疫のように蔓延しているのは何故なのかという問いが、この論考の枢要な主題を成しているのである。
 人々の反社会的欲望が、自己の欲望に対する禁圧への憎悪に基づいていることは明白な事実である。つまり、社会的連帯や文化的規範に対する不満は恒常的に形成され得る心理的現象である。社会的=文化的抑圧に対する不満は、例えばあらゆる幼児の裡に鮮明な姿で見出される。この不満を抑制し、文化的規範を内面化することで、道徳的発達と社会的成熟を遂げるというのがフロイトの「超自我」に関する学説である。
 つまり、文化的規範に対する恒常的不満が社会の随所に発見される現状を認めながら、フロイトが志向しているのは文化の破壊ではなく、寧ろその積極的な保護と改善である。彼は現行の文化的規範が、人々の不満を緩和する充分な手段と制度を備えていないことを認めつつも、だからと言って文化的規範に先行する原始的な自由への憧憬を重視しようとは考えない。如何なる文化的不満も「自然状態」に拘束された人間が日夜経験し続ける慢性的な苦痛に比べれば凌ぎ易いものであるというのが、フロイトの見解なのである。

 だから文化の禁止命令の廃止を望むのは、思慮のないことであり、近視眼的なことなのだ。その後に残されるのは自然状態であり、これは文化の禁止命令よりもはるかに耐えがたいものなのだ。自然は人間に欲動の制限などは求めないし、人間を放任しておくのは事実だ。しかし特別に効果的な方法をもって、人間に制約を加える。つまり自然は人間を冷酷に、残酷に、容赦なく殺すのだ。ときには、わたしたちがみずからの欲望を満たすその瞬間に殺すのではないかと思うこともあるほどだ。自然が人間を脅かすこの危険性に対抗するために、わたしたちは力をあわせて文化を創造し、とくに人間がともに生活することができるようにしたのである。自然から人間を防衛するというのが、文化のおもな役割であり、文化はそもそもそのために存在するのだ。(「幻想の未来」『幻想の未来/文化への不満』光文社古典新訳文庫 pp.30-31)

 自然状態から人間を庇護する連帯の盟約が「文化」であり、その文化の更なる発展と改善を目指すことが大切であると主張するフロイトによって、紛れもない「文化」の重要な部分を成す「宗教」が批判的言及の対象に選ばれるのは、如何なる論理に由来する帰結なのだろうか。その理由には様々な要素が挙げられるが、恐らく最も重要な論点は「宗教」が「幻想」であり、必然的に人間の理智を停滞させ、鈍麻させる弊害を孕んでいるという問題に尽きるだろう。フロイトは「幻想」を「願望」の帰結と看做す。そして絶えず自然の脅威や文化的抑圧に苦悩する人々にとって、宗教的幻想が強力な慰安の源泉として機能してきた事実に着目する。しかし、それは文化的規範の発展と改善には貢献しなかったというのが、フロイトの判決である。宗教的幻想は人々の心理的不安を緩和し、不条理な現実に耐えさせる支援者の役割を担ってきたが、その営々たる努力は結局、文化的抑圧への根深い不満を解消していない。言い換えれば、宗教という麻酔に人類が依存し続ける限り、社会の進歩や改良は期待出来ない。無論、フロイトは宗教的信仰の自由を論難したり、その廃絶を声高に要求したりしている訳ではない。幻想は論理的に反駁し得ない対象であり、何らかの幻想を信じるか否かの選択は、他者によって強要されるべきものではないと、彼は明確に述べている。但し、幻想の信仰が個人の恣意に委ねられるべきものであるならば、宗教的幻想を社会的制度や文化的規範の礎石に用いて、万人に適用しようと試みるのは過ちである。特定の幻想を信仰するように強制し、真理ではなく幻想によって人民を教育し、幻想を根拠として構築した規範の遵守を命じるのは正しい営為ではなく、文化の理想的形態であるとも言えない。宗教的抑圧の代わりに現実的抑圧を駆使すること、それがフロイトの冷静沈着な勧告である。彼は単に宗教的抑圧からの解放と自由を謳歌せよと述べているのではない。それは原始的人間の享受する原始的自由に憧れるのと同じくらい幼稚な幻想である。何れ抑圧が宿命的に避け難いものならば、その抑圧を少しでも健全で機能的なものに改善していこうという穏当な提案を、彼は慎重な論理と誠実な口調によって表明しているのだ。