サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(年の瀬・悪疫・逆境)

*光陰矢の如し、知らぬ間に年の瀬を迎え、新年が直ぐ傍に迫っている。恐らく新型コロナウイルスの世界的蔓延によって歴史にその名を色濃く刻まれるであろう2020年、人々の生活が事前に予測されない重大な変化と転換を強いられた一年、それが瞬く間に終わろうとしている。
 今年の三月下旬に、四年間働いた千葉市の店舗を離れて東京駅構内への異動を内示されたとき、既にコロナウイルスは猛威を揮いつつあり、厖大な旅行客の需要を抱えて売上高日本一の盛名を誇っていた東京駅の日商は既に地を這っていた。前年比で見れば全店で最低の水準を推移する店舗に赴任を命じられ、私の社会的責務は苛酷な陰翳に彩られた。売れ筋も仕事の進め方も外的与件も今までと全く異なる環境に飛び込んで、乏しい智慧を絶えず雑巾の水気のように絞り出しながら働いた一年だった。国家的な観光促進キャンペーンの対象地域に東京が加えられた十月以降は、店舗の実績も著しい復調を示したが、十一月後半以降の深刻な感染第三波襲来によって、漸く見えた一条の希望の光明は無惨に蹂躙され、年末年始の新幹線指定席予約状況は過去最低の数値を記録している。やれやれ、という草臥れた感慨が、本来ならば年間で最も繁忙であるべき私の社会的生活を蚕食している。歴史的な逆境に投げ込まれた私の運命は呪わしいものだろうか。しかし、店舗が日々営業を続ける以上は、誰かがこの損な役回りを引き受けねばならない訳で、外れ籤を引いた自分を殊更に憐れもうとは思わない。人から不憫だねと慰められたい訳でもない。程度の差異はあれ、逆境は絶えず人間の生活を包囲する。それに私は、自分で自分を惨めな人間だと思って、恵まれない境遇を儚んで過ごすような生き方が嫌いである。
*日常性が如何に脆弱なものであるか、本年の実績と前年の実績とが同じ軌跡を描く安定的な事態が如何に奇蹟的なものであるか、そういうことを改めて学んだ。思えば、過去にも同様の社会的苦難は幾つも勃発した筈だ。私が初めて店長の職位に任じられた十数年前の冬には所謂「リーマン・ショック」が起きて、殆ど総ての店舗が急激にその実績を悪化させた。私が千葉県市川市の店舗に赴任した翌月には東日本大震災が発生して、多くの店舗が営業すら儘ならない状態に陥り、会社は巨額の単月赤字を計上した。日常性の破壊、素朴に信じられていた習慣が機能不全に追い込まれる「有事」の勃発、そういう不測の事態は定期的に我々の生活を見舞っている。その意味では、個人の力では解決し得ない艱難辛苦に逢着するのは、巨視的なスパンの裡に置いて眺めるならば、概ね「日常的出来事」と看做して差し支えない。どうせ乗り超えるならば、巨大な困難の方が遣り甲斐を感じさせてくれるだろう。矮小な蹉跌より、歴史的試練の方が、私という人間をdrasticに改革し、成長させてくれるだろう。容易には得難い貴重な知見を蒐集する好機となるだろう。こんな言種は惨めなoptimismの所産に過ぎないと嗤われるだろうか? 大いに結構である。私も自分の置かれた苛酷な環境を笑い飛ばして、少しずつでも明るい方角へ歩みを進めたいと考えている。
*崩れない日常の内側では、過去の習慣がそのまま有益で堅牢な規範となり、我々は前例への素朴な信仰に依拠して日々の言行を決定することが出来る。変わらない日常は、その意味では幸福の重要な主成分である。従って、従来の日常的規範が潰滅した世界では、あらゆる前例が無効化の懸念と踵を接する。既成の常識は、その妥当性や有効性を再審に附される。良くも悪くも、我々は変革の年の瀬に暮らしている。今までと同じ生活は戻らないし、穏やかな日常が再建されたとしても、それは新型コロナウイルスを知らなかった頃の我々の日常とは異質である。何かを知ることは、人間に不可逆的な変容を強いるのであり、だからこそ知識や発見に対する保守的な拒絶は、人間の退嬰を意味する。コロナウイルスの齎した様々な病変の後遺症は、身体のみならず、人間の精神に消えない痕跡を刻み入れるだろう。但しそれは、感染症に対する盲目的な恐怖に縛られることを意味するのではないし、社会的距離の保持という御題目に基づいてあらゆる人間的連帯を衰弱させることを志向するものでもない。寧ろ、この悪疫の蔓延が我々に学ばせたのは、社会的連帯の重要性であり、共通の目的に向かって各自が思考と行動の変容を図ることの重要性である。国民に会食の禁止を提案しながら、自らは連夜の会食を自粛せず、批判されれば必要な意見交換だと正当化の反駁を試みる幼稚な政府首脳の姿を見れば、社会的連帯への蔑視が示す醜悪さは充分に理解されるだろう。同時に、社会的理念に基づいて忌避すべき行為を自制を徹底することの難しさも鮮明になる。
*前例や習慣に抵抗することは、とても難しい。従来の手法を踏襲することには、心理的安定が伴う。変革は常にstressfulな経験である。だから、意見交換に会食という手段を用いる長年の慣習に、最も保守的な政治家たちが依存を続けるのは不可避の帰結である。彼らは自分の行動を革める意欲も能力も欠いているのかも知れず、自発的意欲や個人的能力の欠如を世人が指弾しても恐らく解決はしない。意欲は命じられて湧出するものではなく、能力は批判を糧に劇的向上を遂げるものではない。無能と無気力は、処罰によって改善されるものではない。無能でも無気力でも生き永らえることの出来る環境では、寧ろそのような保守性は一種の特別な恩賞のようなものである。普通、無能で無気力な人間は社会的環境からの退場を命じられるのが通例であり、所謂natural stateに置かれた野生の人間が無能で無気力ならば直ちに絶息を強いられるに違いない。無能で無気力な人間が安穏と暮らせるのは、社会の成熟度が高いことの証明である。しかし、変則的に襲来する社会的危機は、そのような成熟にも応分の危機を齎す。無能で無気力な人間であることが死の宿命に直結するならば、誰もが自己の性急な変革を図るだろう。私は有事を生き延び得る人間でありたいので、もっと賢明に考え振舞えるように、学び続けることを習慣にしたい。要するに私は惨めな犬死を避けたいので、もっと賢くなりたい。自粛すべきであると社会から勧告されている会食の場に無防備な姿で参加してウイルスに上気道や肺臓を食い荒らされて数日で絶命するような非業の運命は辿りたくない。無論、これは不運な感染者の方々を指弾する言葉ではない。どう考えても、病気に罹った人間に必要なのは批判ではなく治療であり、自己管理だけであらゆる疾病を免かれ得ると考えるのは愚昧な思想である。生き延びる為にどう振舞うべきか、その模索に簡便な結論は存在しない。マスクの着用に過剰な信頼を寄せるのは、連夜の会食を自制しないことの愚かしさと似たり寄ったりである。だが、とりあえずマスクを着用して会食を避ければ、恐らく感染の確率は下げられるだろう。重要なのは合理的な思慮を堅持することであり、特定の選択肢に固執しないことである。特定の選択肢への固執は、習慣や前例への依存と同義であり、それでは生き残れなくなるのが「有事」の時代のstressfulな特質である。海外の事例を徴すれば、アメリカやイギリスでは国家の元首が新型コロナウイルスに罹患して臥せった。菅総理や二階幹事長は、そうした事例を知らない訳ではないだろう。自身の健康や免疫機能に異様な自信を持っておられるのだろうか。今まで死ななかったから、明日も死なないのだろうか。国家元首が無防備な会食によってコロナウイルスによる肺炎を患い急死する社会は、明日にでも本邦で実現するかも知れないというのに、国民に誤解を与えたなどという不可解な釈明(「誤解」って何なの? 馬鹿にしてるの? 何が「誤解」なの?)に終始するだけで、行動を革めようとしない総理大臣の下で、感染者は爆発的拡大を堅持している。明日は我が身、何とか死なずに生き延びる為に、智慧を働かせるしかない。身体的にも社会的にも、私は自らの延命に精励しなければならない。当然だ。四歳の娘を遺して勝手に他界出来る訳ないじゃないか。