サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

My Reading Record of "Who Moved My Cheese?"

 英語学習の一環として取り組んだ Spencer Johnson,Who Moved My Cheese?,London,1999 を読了したので、感想の断片を認める。

 本書は二〇〇〇年に扶桑社から邦訳が出版され、日本国内でも累計四〇〇万部に達する売上を誇る、極めて華々しい数字に彩られた国際的に著名な自己啓発の為の書物である。内容は単純明快で、その主題は「変化への対応」である。新型コロナウイルスの蔓延に伴って価値観や生活の過半を強制的に改革されるという得難い経験を踏まえた我々にとっては、本書が扱っている主題は否が応でも馴染み深いものであると言えるだろう。
 変化に対応することの重要性に就いて、現代に生きる多くの社会人はうんざりするほど夥しい回数の有難い説法を聞かされているだろう。社会の様々な局面において、事物の変化する速度が増し、その範囲や密度が拡大していることは経験的な事実である。通信技術が発達し、交通網が整備され、国際的な交流が活性化すればするほど、局所的な知見が幅広い領域で迅速に共有され、新たな技術や発想の醸成に発展するのは自明の理である。技術や知識が目紛しい勢いでupdateされていく為に、かつて有益であった知見や有効であった技術が瞬く間に古びていく社会に我々は所属して、日々の活動に従事している。そうした現状を鑑みれば、変化への適応を奨励し、場合によっては強要する世界的傾向は、不可避の現象であると言える。
 著者は、変化の重要性と価値を説くと共に、人間が如何に変化を怖れるか、過去の成功に執着し、過去から未来を演繹することを望むか、快適な環境の永続を望むか、という人類の普遍的特性に就いて、簡潔な言葉で論じている。しかしながら、非常に残念なことに、快適な環境の永続が不可能であり、何らかの変化を蒙ることが不可避であるという事実は否認し得ない。それゆえ、変化に対する不安や怠惰を払拭し、寧ろ変化を前提とした生活の設計を推進すべきであると、著者は穏やかな口調で訴える。こうした論理は、それこそ古代ギリシャヘラクレイトスや古代インドの釈迦牟尼の時代から営々と倦まず弛まず語り続けられてきた、歴史的な真理の重要な典型である。「常住」ということは有り得ず、森羅万象は「無常」であり、変化を拒絶し得るという考え方は妄想的な謬見に過ぎない。けれども、生活の恒常的な安定を求めるのは人間の本能である。だから、理窟として真理を把握しただけでは、我々は本能の要請に容易く屈してしまう。意識的な訓練の蓄積がなければ、真理は有益な影響力を発揮する機会を得られないのである。真理は、その正しさを証明するだけでは決して実現されないのである。
 東洋の叡智の本質的源泉の一つである仏陀の教説は「四苦八苦」というideaを展開した。「生老病死」の四種に加えて「愛別離苦」(愛する者と別れる苦しみ)「怨憎会苦」(憎むべき相手から離れられない苦しみ)「求不得苦」(欲しいものが手に入らない苦しみ)「五蘊盛苦」(自己の心身を随意に制御し得ない苦しみ)が存在するという仏陀のpessimisticな認識は、人間の生存の条件を冷徹に照らし出している。そして、これらの苦しみの根源は悉く「諸行無常」という世界の存在の条件から齎されているのだと言い得る。「諸行無常」即ち「変化は不可避である」という事実を適切に認識しない限り、認識と現実との不整合によって、これらの苦しみが生じるのである。変化の不可避的な性質を理解し、変化を忌避するのではなく寧ろ積極的に変化と合一することが、望ましい生涯の為の心得であるという訳だ。
 過去の慣習、前例、伝統、これらへの固着が滅亡を齎すという考え方、そして伝統を保存し継承する為には持続的な革新を試みねばならないという考え方は、現代の常識であり定説である。無論、絶えざる革新は誰にとっても容易ではない。だが、そのstressfulな生き方は、少なくとも衰弱の極北で滅び去るよりもマシな境遇であるというのが、著者の根本的な認識である。