サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(Non-Platonic Days of Learning English)

*最近は英語学習と称して専ら J.K.Rowling,HARRY POTTER and the Philosopher's Stone,London,2014 を読んでいる。十代の頃に邦訳で読んだ経験があり、大まかな筋書きは記憶の底に残っているので、知らない英単語や見慣れぬ表現の意味を推し量りながら読むのに相応しいだろうと考えたのだ。
 見知らぬ単語には幾らでも出喰わす。都度、辞書を引きたくなる気持ちを堪え、和訳するのではなく英語の語順、英語の音韻を遵守したまま読み解くことに尽力する。そうやって英文の意味を辿り、語られている世界の内容を想像しながら思うのは、翻訳というものの根源的な不可能性である。英語でも日本語でも、類義語というものは豊富にある。例えば「賢い」という概念に対して、英語ならばclever,wise,smart,bright,intelligent,intellectualなどの複数の単語が有り、日本語でも「賢い」「利口」「頭が良い」「聡明」「賢明」「明敏」「頭脳明晰」「頭の回転が速い」「知性的」といった複数の表現がある。問題は、特定の文脈において、何れの単語が最も適切な選択肢であるかということは、それぞれの言語の内部の相互的聯関によって規定されるのであり、そうした言語の内在的体系が、英語と日本語の狭間で完璧に対応することは有り得ないという点に存する。clever,wise,smart,bright,intelligent,intellectualといった単語たちが相互に有している関係性と完璧に照応する関係を、英語以外の言語の裡に見出すことは出来ない。文脈に応じてcleverを用いたりsmartを用いたりするときの判断基準は英語という体系に固有の規範に基づいており、あらゆる言語に共通する恒常的で普遍的な基準、謂わば「言語」のideaが存在する訳ではない。翻訳は、可能な限りの近似値を探し当てる懸命な苦闘である訳だが、多かれ少なかれ「意訳」となることの宿命は避け難い。完璧で純然たる「逐語訳」というのは妄想的理念である。あらゆる言語は共通の基礎の上に成り立っていると考えることに根拠はない。それゆえ、外国語学習の本義を「逐語的和訳」と看做す考え方は決して自らの理想に到達し得ないのである。英文の多読を推奨する人々が、成る可く辞書を引かずに単語や文脈の意味を推測するように勧告する背景には、こうした原理的事情が介在しているように思われる。重要なのは英語に対応する日本語、英文に対応する和文を探究することではなく、英単語や英文に対応する事物や状況を発見し認知することである。cleverに対応する和語を考えて充当するのではなく、cleverが指し示す事物や状況を、つまり現実的要素を理解することである。実際、日本語の話者が日本語で事物を把握したり意思疎通を図ったりすることに英語の扶助は無用である。同様に、英語で読み書きしたり会話したりするのに日本語の介助は必要ない。そして、例えば今「扶助」と「介助」或いは「無用」と「必要ない」という風に日本語を使い分けた基準は、日本語という体系の内部にしか見出し得ないし、しかもその基準は頗る感覚的で個人的なものである。この使い分けに符合する英語の関係性を探索するのは無益だろう。つまり、英語を習得することと英語を翻訳することとは、同一の作業を意味しないのである。possibilityとlikelihoodを使い分ける根拠は英語の体系の内部にあり、それを日本語に置き換える場合に如何なる使い分けのパターンが照応するかという問題は、どちらかと言えば日本語の体系の内部における課題なのである。

*もう一つ重要なことは、あらゆる単語は常に帰属する文脈との関係によって、その意味を規定されており、その文脈はverbalであると同時にnon-verbalでもあるという点である。だから、単語だけを文脈から切り離して、その純然たる意味を抽出しようと試みるのは、無益とまでは言わなくとも、尋常ならざる難題であるとは言える。言い換えれば、個々の単語に普遍的な意味が内在するというplatonicな考え方は、必ずしも我々の属する日常的=経験的現実を反映しないのである。明確な定義を有する複数のideaが複合して具体的な現実を構成していると考えるのは理念的な、つまりidealisticな発想である。仮にそのような普遍的定義が「真理」として永久に君臨し続けるならば、言語の新しい用法や造語が生成される見通しは皆無ということになるだろう。寧ろ我々は思わぬ言語の組み合わせから新しい意味を見出すのであり、言語の実際的運用の過程で次々に単語や表現の意味を増殖させ、革新するのである。無論、学術的な議論においては、用語の意味は厳密に定義されねばならない。しかし、それは言語の普遍的で恒常的な本質が、Platoの信じるように不変のideaとして事前に存在することを意味しない。議論の場においては、その都度、用語の意味に関する暫定的合意が形成されねばならない。或る単語を如何なる意味で用いるか、或る単語に如何なる意味を担わせるかということは、議論の場であろうと生活の場であろうと一冊の書物の内部であろうと、その都度、その時々で決定されるべき流動的な実質なのである。従って「正しい日本語」という保守的なidealismは、或る郷愁に充ちた理念としてのみ享受されねばならない。言い換えれば、予め完璧な辞書が存在するという考え方は棄却される必要があるのだ。その意味で、普遍的に正しいと看做される知識=epistemeから演繹的な手順で出発する語学は、我々の属する本物の現実を反映しないと結論することが出来る。寧ろ我々は言語の具体的な運用の実例から学ぶしかなく、その実例が何らかの意味を結晶させ、それを他者と共有することに成功したという事実に信頼の根拠を求めるしかない。大事なのは、単語の辞書的=普遍的定義の総覧を諳んじることではなく、その単語が使われている実例を学び、その言語が如何なる意味で使われているかという実例に通暁することである。多読の推奨の論拠は、こうした認識に基づいているのではないかと推察される。

*様々な言語的芸術は、言葉に新たな意味を与え、言葉に斬新な運用の方法を授けることを自らの使命としているのではないだろうか。そして、あらゆる議論は、要約すれば、この特定の言葉に如何なる定義を与えるかという合意形成の迂遠なプロセスに他ならないのではないか。我々が言葉を尽くすのは、その言葉が期待される特定の意味に到達することを熱望するからである。一冊の書物が著されるのは、或る一つの事物、或る一つの状況、つまり何らかの事実を可能な限り精確に言い当てる為である。単語や文法の辞書的定義は、こうした格闘の成功を何ら保証しない。我々は話したり書いたりする度に、言語の新しい運用を発明する。それが成功する絶対的保証は存在しない。我々の言語的格闘は常にrelativeな営為である。そして要するに私は、辞書を引かずに英文を読むという学習方法の正当化を目的として、こうした弁論を展開した次第である。