サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(A Significant Difference between Ruin and Decay of Yukio Mishima)

*自分自身が徐々に年齢を重ねて、まだ致命傷には至らずとも、肉体の随所に色々な不具合、或いはその予兆のようなものを感じる機会が増えてくると、否が応でも「若さ」というものの価値を考えずにはいられない。これは誰もが経験する不可避の通り道であり、重要な岐路であって、生まれてから当面の間は、右肩上がりの眩い成長を何の疑問も持たずに受け入れ、その奔流に呑まれながら漂うのだが、或る時点から、そういう無条件の発展や、無尽蔵の活力の蕩尽、無思慮と情熱だけを糧に行動し、多少の負荷ならば平然と踏み躙ってしまえる、あの比類のない異様な生命力のようなものが、確実に目減りしつつあることに早晩気付かされる。少なくとも一定の良識的な知性と自己認識があるならば、その変化は確実に感知されることになる。成長と回復の輝かしい軌跡が重大な分水嶺を知らぬ間に幾つも踏み越え、不可逆的な衰弱の兆候が様々な局面で露わになる。それは普遍の生物学的宿命であり、人類に属する全ての個体が今まで一度たりとも免れることの出来なかった絶対的な、悲劇的な末路である。従って、それ自体を不幸だと言い募るのは傲慢な嘆きに過ぎないかも知れない。けれど、例えば仏陀は人間の根源的不幸と痛苦を表す「四苦」という概念を「生老病死」の四つで構成した。つまり、老いることは紛れもない人類的不幸なのである(尤も、生まれること、生きること自体が既に「苦」の源泉であると仏陀は喝破しているのだから、老醜のみを殊更に強調する必要も必然性も存在しない)。

三島由紀夫の遺した作品には、老醜に対する忌避と、美しい夭折への憧憬が繰り返し刻まれ、入念に彫り込まれている。この異様なオブセッションは、何を意味するだろうか。一般に老いることへの恐怖は、来るべき滅びの予感に対する絶望的不安と密接に結び付いている。避け難い滅亡への恐怖心が、老齢の境遇に対する否み難い嫌悪と怨嗟を醸成する。けれども、三島の場合、老醜への恐怖は、直接的に死や滅亡の恐怖と短絡する情念の働きではない。例えば代表作「金閣寺」における溝口の暗い妄執、戦時下の金閣と共に空襲の劫火に焼かれて心中することへの期待は、明らかに死を怖れる者の心理ではない。寧ろ彼は、生きることへの堪え難い嫌悪を常に病んでいるのである。未来が塞がれ、死が必定の運命であるような世界(一般にそれは「戦場」である)、そのような未来の断絶と消滅が、却って虚無的な慰安を齎す。つまり、彼は死や滅亡よりも「衰弱」を恐れるような、特異な審美的感受性を備えているのである。三島の思想信条は絶えず、こうした審美的規範によって支えられ、養われていた。見苦しい長寿への根深い嫌悪、若く健康的な、美しい肉体への欲望、つまり「衰退」を否定する感受性は、劇的な「滅亡」に対するパセティックな衝動と矛盾しない。醜く衰えることは断じて拒否するが、華々しく滅び去ることには躊躇しない。要するに三島にとって重要な問題は「善き生を営むこと」ではなく、専ら「美しい死を遂げること」の裡に存したのである。その観点から眺めるならば、生前の過程は全て「美しい死」という瞬間的な頂点の効果を高める為の精緻で迂遠な伏線に過ぎない。言い換えれば、生きることは仮面舞踏会に過ぎない。重要なのは劇的で鮮烈な幕切れであり、その瞬間に爆発する芸術的成果である。三島は作品の執筆に際して事前に詳細な設計を行い、最後の一行を決めてから起筆する習慣であったと何かで読んだ覚えがあるが、そうした芸術的創造における手法は、単なる技術的問題に留まらず、彼自身の生涯、人格、根源的信条と緊密に相関したものだったと思われる。彼にとっては「結論」が全てなのだ。生きることそのものの歓喜は余慶に過ぎず、万事、或る劇的な終幕へ向かって巧妙に配置され、選択された出来事の連鎖に過ぎない。彼は不確定な要素を忌み嫌っている。周到な準備によって、自分の人生を壮麗な悲劇に昇華させることが宿願である以上、計画は能う限り、完璧な手順で遂行されねばならない。こうした考え方が、戦没した若者への共感や「葉隠」への傾倒、自衛隊に対する蹶起の煽動、要するに経済的繁栄と肉体的健康を露骨に奨励する「戦後民主主義」というレジームに対する保守的な反発、敵愾心と同期している事実は否定し難い。三島の表現した異様な「死の倫理学」は、諸々の艱難辛苦を乗り越えて生き延びようとする健気な人々の心を励ましたり慰撫したりするものではない。近年、無闇に三島由紀夫を再評価する声が聞かれるが、彼の作品は本来、社会の健全な主流派の歓心を贖ったり、幅広い層の共感を喚起したりするものではない筈である。言い換えれば、社会的秩序の荒廃や劣化が、三島由紀夫のような反動的思想に対する需要を促進しているように思われる。そのことの善し悪しは一概に言えないが、三島由紀夫の文学が持て囃され、寵愛される社会というのは、余り居心地の良い世界だとは思えない。