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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

共感する歌は、広く届かないと、彼は言った

 先日、NHKの「SWITCH」という興味深い番組で、映画監督の西川美和氏と、「いきものがかり」の水野良樹氏が対談していた。表題の「共感する歌は広く届かない」という発言は、水野氏のものである。

 西川氏の「何故、自分たちの音楽活動がマス=大衆に受け容れられたと思うか」という問い掛けに対して、水野氏が返した断片的な答えは面白かった。私なりに要約すれば、彼は「大衆的である為には、作り手は共感を求めてはならない」と言ったのだ。別の表現として、彼は「中身ではなく器を作っている。何故なら中身は分かり合えないし、伝わらないから」という意味の発言も行なっていた。どちらも文章を書いて発信することに素人ながらも強い関心を懐いている私にとっては、示唆に富んだものであった。

 対談相手の西川氏が「自分の為に映画を作っている」と明言したのとは対蹠的な、この水野氏の考え方は、或る意味ではユニークであるとも言えるし、別の言い方をすれば迎合的であるとも言える。微妙な問題なので、巧く言葉に置き換えるのは難しいのだが、要するに彼は「自分の言いたいことを伝える」よりも「言いたいことの外側を形作る」作業に重点を置いているのだろう。彼にとって音楽は「自己表現」ではないし、自分の内なる真率な感情や思念を誰かと共有することでもない。彼の作り出す音楽は、こういう言い方は誤解を招きかねないが、実用的な「商品」としての性格を備えることに最終的な規範を求めている。自己表現としての芸術ではなく、飽く迄もそれを受け止める側の立場に視点を置いて、いわば「使い勝手の良さ」を追求することが、彼のクリエイターとしての矜持なのだ。

 そうした手法が、彼の所属するバンドの幅広い大衆的な人気の形成に寄与していることは、確かに事実であるように思われるが、鑑賞者にとって一つの「空気」のような存在として作品を位置付けることは、熱狂的な観衆の形成という観点から眺めれば、マイナスの要素を含んでいるのではないだろうか。「上善若水」という老子の言葉のように、そうやって誰の心にも自由自在に形を変えて染み入るということは、確かに最上の美徳であるのだろうが、その闊達な様態が却って、物足りなさや個性の欠如といったマイナスの評価を喚起しかねないことも事実であろう。無論、これはそれぞれの価値観に属する問題であって、「上善若水」の透明な曖昧さが、大衆的な音楽にとっては重要であると同時に、先鋭的な認識を齎したり、唯一無二の独創性を発揮したりする可能性の欠落に繋がるのは、何かを得れば何かを失うという現世の損益計算書の理に強いられた現象である。彼は主体性を抛棄することによって、あらゆる人々の「主観」に合致し得るという八方美人の特性を勝ち得た訳だ。そのような方針に対する毀誉褒貶が錯綜するのは避け難い宿命である。

 翻って、自分はどちらを選ぶのだろうかと問い掛けてみる。仕事においては、自分自身の小さな美学や哲学に拘泥するより、結果を求めて貪欲に様々な方法へ挑戦するよう心掛けている積りだが、実際には、私は水野氏のように徹底した大衆性、所謂「マーケットイン」の価値観には余り親和性を有していない。多分、私は私自身の考え方や感じ方が最も大切で、もっと端的に言い切ってしまえば強情な男なのだ。度し難いほどの我執に囚われた哀れな人間にとって、表現することは何よりも先ず「自分を語ること」である。要するに私は「共感」されたくて堪らないのだ。因果な性格である。