サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

小説「Hopeless Case」

「Hopeless Case」 13

喫茶店を領する雑多な物音、誰かの低い話し声や、洗い物の食器が触れ合う硬く軽やかな響きや、静謐な音量で流れる異国の言葉の楽曲、それらの緊密な重なりが育む生温い居心地の良さに包まれて、椿は透明な幸福の感情を咬み締めていた。殊更に意識しない限り…

「Hopeless Case」 12

早春の柔らかな風が、埃っぽい街衢を懶惰に彩る水曜日の晴れた朝、椿は待ち合わせの場所に指定された本郷の小さな喫茶店で、静かにミラン・クンデラの「冗談」を読んでいた。尤も、充分な集中力を発揮して、その物語の奥地に分け入っていたとは到底言い難い…

「Hopeless Case」 11

川崎辰彦の勤める小さな出版社に、どうにかして雇ってもらおうという厚かましい魂胆が何時から椿の魂の一隅を占めるようになったのか、その明確な日付は曖昧に掠れていた。淡々とした事務的な物腰で、零細企業の哀切な世過ぎの風景を物語る辰彦の野暮ったい…

「Hopeless Case」 10

「素敵なイヤリングだね」 川崎辰彦かわさきたつひこの然り気ない賞讃は、事務的な会話の流れに極めて巧妙に織り込まれていたので、椿は一瞬、言葉の意味を掴み損ねた。そのとき椿の耳朶に揺れていたピンクゴールドのイヤリングは、亘祐と別れてから最初に迎…

「Hopeless Case」 9

我関せずの気儘な態度を貫くには相応の覚悟が要る。失恋の痛手に冷静な理智を曇らされた椿は暫く、怠惰で自由な生活に埋もれて世捨人の境涯に身を窶していたが、早春を迎えて就職活動が本格化すると、両親や教員からの社会的な圧力は俄かに強まって、彼女の…

「Hopeless Case」 8

吹き荒れる夥しい官能的な火箭の嵐を潜り抜けて、椿の生活は潔癖な修道女のように無垢な日課を刻み続けた。別に生来の豊富な好奇心が、燃え尽きた蝋燭のように涸渇したという訳ではない。ただ、彼女は昔の軽薄な人懐っこさを慎重に排除し、他人との適切な距…

「Hopeless Case」 7

恋が醒めた途端に人は、魂を丸ごと交換したような劇しい変貌を遂げる。椿は、そもそも自分自身の魂が変貌するような恋愛を知らずに長く過ごしてきたから、亘祐と訣別した後は暫く、蝉の抜け殻のように何処へも出掛けず、余り小説も読まなかった。他人の色恋…

「Hopeless Case」 6

大学三年生の夏に、亘祐が他に好きな女性が出来たから別れて欲しいと言い出したとき、椿は束の間、彼の言葉の意味を精確に計量することが出来なかった。 亘祐はその年の春から旅行代理店の営業部員として、着慣れないスーツを窮屈そうに纏いながら、社会の真…

「Hopeless Case」 5

椿と亘祐は人前で露骨に戯れ合うことを好まなかったし、二人の絆の縺れ合いを他人の酒肴に供することも嫌っていたから、特に出口の見えない恋愛相談や厚かましい惚気話は常に差し控えた。無論、世間は狭いので、どんなに夜の暗がりに息を潜めても、新宿の眩…

「Hopeless Case」 4

武岡亘祐という男の何がそれほど、他の男たちと違ったのだろうか。いや、そんな大仰な設問は却って事態の全貌を見誤らせる弊害となるかも知れない。似たような時代と土地に生を受け、似たような境遇を過ごして、似たような大学に進んだ男が、その他の有象無…

「Hopeless Case」 3

椿は虚しい高望みに魂を引き摺られて、次々と枕を取り換える移り気な女の子だったのだろうか? 傍目には、そういう好ましくない道徳的評価が適切であるように見えることも少なくなかったに違いない。彼女の持ち前の無責任な博愛主義、殆ど趣味的な博愛主義が…

「Hopeless Case」 2

大学に進んだ後も、椿の魂を奥底から震撼する力を備えた男性との出逢いは中々得られなかった。聊か怠惰で、生真面目で情熱的な大学生を演じる意欲も欠いていた彼女は、入学を機に今までの自分を改革しようなどという殊勝な心掛とは無縁だった。だから、周囲…

「Hopeless Case」 1

椿つばきは幼い頃から読書を好んだ。文字に興味を覚えるのも早く、平仮名や片仮名を目敏く見つけては、両親に読み方を教えろと忙しなくせがんだ。どんな遊びよりも絵本の読み聞かせを最も深く愛し、どんな奇怪な空想でも、見知らぬ異郷の物語でも易々と受け…