サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

小説「Hopeless Case」

「Hopeless Case」 37

辰彦より一足先に会社を出ると、既に夕闇は濃かった。ビルの谷間を冷え切った疾風が鞘鳴りのように駆け抜け、滲んだ西日は何処か色褪せて見えた。椿はコートの襟許に顎を埋めて、上眼遣いに道路の対岸の信号機を見凝めた。都会の雑踏、という手垢に塗れた言…

「Hopeless Case」 36

午後の仕事の間、辰彦は努めて荒城との不穏な会話の残像を眼裏から追い払い、淡々と熟すべき業務の数々に専念し続けた。荒城の側でも、特に深追いする素振りは見せなかった。所詮は他人事だと考えているのだろうか。面倒な人間関係の癒着に予防的な措置を講…

「Hopeless Case」 35

湯気の立つ珈琲がそれぞれのデスクの上に鎮座し、書類が飛び交い、内線外線を問わずに卓上の固定電話が鳴り響き、スケジュールとタスクが複雑に絡み合ってペルシア絨氈のように精緻な柄を描き、正月休みの緩慢な自殺のような静寂は打ち砕かれ、蓄積した業務…

「Hopeless Case」 34

夜明け前に眼が覚めた。起きた瞬間から、意識が隅々まで冴え渡っていた。早起きする度に感じる、ヒリヒリした躰の重さ、瞼の重さも感じない。寝静まった部屋の壁際に横たわったまま、耳を澄ませると、居間の時計が時を刻む規則的な音さえ明瞭に聴き取れた。 …

「Hopeless Case」 33

長い正月休みが始まった。椿には、特に予定もない。父方の祖父母は既に亡くなり、母方は祖父が二年前に膵臓癌で逝き、取り残された祖母は痴呆が進んで今は幕張の施設に入っている。面会しても、娘の顔すら覚えていない。つまり、帰省の予定はない。幾日か友…

「Hopeless Case」 32

長い正月休みが始まった。辰彦の実家は船橋の夏見にあり、日頃から週末の休暇に幾度も孫娘の顔を見せに帰っていたが、梨帆の実家は金沢にあり、纏まった休暇でなければ帰省は難しい。だから盆暮の長い休暇は新幹線で金沢へ帰るのが、二人が所帯を構えて以来…

「Hopeless Case」 31

朝帰りではなかった。それは端的な事実だった。午前一時を回り、日附変更線を跨いだ帰宅ではあったが、夜明けまで呑んだくれていた訳ではない。それは確かに、その通りだ。 娘の幼い寝息に耳を傾けながら、会社の付き合いとはいえ、野放図な夜遊びに耽って帰…

「Hopeless Case」 30

三々五々、人々が散ってしまった後で、辰彦と椿は未だ互いの隣に佇んでいた。夜の闇が飲食店の目映い軒燈の群れに照らされ、視野の方々で引き裂かれていた。不機嫌そうな黒塗りのタクシーが、酔漢の横切る危なっかしい車道を蛞蝓の速さで這い回っていた。見…

「Hopeless Case」 29

一年間の仕事を卒えた歓びと解放感が、人々の心を透明に変えていた。誰もが普段より浮かれ過ぎていて、躁ぎ過ぎていて、消費されるアルコールの総量は止め処なく膨れ上がった。テーブルの上には大小様々の皿や器が濫れ返り、盃が林立し、雑炊を煮立てる土鍋…

「Hopeless Case」 28

「椿ちゃんはどんな男性がタイプなの?」 徐々に酔いの深まり始めた幸野が、仄かに舌足らずな声で尋ねた。若しも同じ質問を、年の離れた男性の社員が投げ掛けたら、直ちに淫猥なハラスメントの罪状を眉間に刻印されるだろう。それは奇妙な相対主義ではないだ…

「Hopeless Case」 27

忘年会という風習が悪しき旧弊だと嫌がられるようになってから、どれくらいの年月が経っているのか分からない。けれども辰彦の勤め先では、その旧習は今も頑固に根付いていた。御用納めの納会は、毎年社長の掛け声で潤沢な経費が認められ、経理部長の芳川の…

「Hopeless Case」 26

毎週金曜日の夫の帰りが遅いことを、梨帆は何時しか気に病むようになっていた。固より、公務員の如く十七時の鐘と共に終業するような性質の勤め先ではないが、同僚と毎晩のように酒を酌み交わすタイプでもない。娘が生まれてからは特に、夫の飲み会の頻度は…

「Hopeless Case」 25

小説だって現実だ。椿の断固たる確信に支えられた言葉は、辰彦のスマートな理性を聊か混乱させた。実際、そのように考えることが出来なければ、衰燈舎が手掛けている類の、とてもマイナーで癖の強い外国の小説を翻訳して高価な造本で国内に頒布するという重…

「Hopeless Case」 24

季節は矢のように駆け巡った。夏季休業が終わると、椿が衰燈舎を訪れる機会は自ずと減った。内定は学士の肩書を前提としていたから、彼女は卒業証書を確実に勝ち得る必要があった。必ずしも勤勉な学生とは言い難い椿は、普通の四年生に比べて取りこぼしてい…

「Hopeless Case」 23

「遅かったね。疲れてるの?」 字面だけを受け止めれば優しい労わりの言葉以外には聞こえようもないが、人間の発する言葉は必ず生身の肉声を伴っていて、その生理的な音楽が吐かれた科白の文脈を規定する。その観点から耳を澄ます限り、彼女は何かしら疲労を…

「Hopeless Case」 22

もう自分が確りと面倒を見る以外に選択肢はないと、辰彦は覚悟を決めた。荒城との面談を終えた椿は脱け殻のように無口で、そんな憔悴した姿を目の当たりにした編輯部の面々は、ざまあ見やがれという無慈悲な感想を口にしつつも、同時に或る痛ましさも感じて…

「Hopeless Case」 21

「色々と面倒な繰り言が俺のデスクに押し寄せて来るんだよ」 各種の打ち合わせに用いられる殺風景な部屋の奥まった場所に置かれたソファで、荒城は乱暴に膝を組んで、左右に分かれて座った二人の顔を順繰りに眺めた。二人とも沈黙で自分の身を護る以外の途を…

「Hopeless Case」 20

定岡と遣り合った翌日の金曜日、窓から射し込む光が仄かな茜色を混淆し始めた午後四時、椿は編輯部長の呼び出しを受けた。彼女の実質的な保護者である辰彦も、同席を命じられた。 定岡との諍いが、何か劇的な破局に結び付いたという訳ではない。悲劇的な惨事…

「Hopeless Case」 19

椿の生活は充実していた。傍目には、それを充実と呼んでいいのかどうか、判然としなかったに違いないが、少なくとも彼女は活々と動き続けていた。就活の終わった同世代は、人生最後の夏休みと思い定めて螽斯キリギリスのように遊び呆けていたが、椿は学友た…

「Hopeless Case」 18

否が応でも、川崎辰彦の仕事は増えた。椿と最初にコンタクトを取り、尚且つ荒城に掛け合って面談の場を誂えたのが辰彦の仕業であることは周知の事実だったから、椿の世話を引き受けるのも辰彦であるべきだというのが、社内の暗黙の了解だった。それを受け容…

「Hopeless Case」 17

大学四年の長い夏休みの間、椿は来る日も来る日も、衰燈舎の入居する老いさらばえたビルに入り浸った。同輩の人々から、無類の文学好きで、世間の標準的な規範から逸脱していて、正しいと目される習慣に従うことを望まない、聊か附き合い難いタイプの女子だ…

「Hopeless Case」 16

敢て顔を出さずにいたのは、荒城に喫煙所で言われた「公私混同」という表現が無闇に疎ましかったからだった。辰彦は編輯部の人々の間で鬱陶しい噂が広がることを怖れていたし、ただでさえ彼の同僚たちは夥しい読書の堆積の所為か、豊かな想像力を患っていた…

「Hopeless Case」 15

衰燈舎は、新常盤橋に程近いビル街の一隅に、置き忘れた帽子のようにひっそりと間借りしていた。その仮寓の社屋は年季の入った汚れ物で、色褪せた混凝土の壁には年月と風雨の痕跡が色濃かった。椿は緊張した面持ちで、待ち合わせの時刻より一時間も早く、大…

「Hopeless Case」 14

厚かましく不敵であること、それは往々にして集団の調和を擾す悪しき性質であると目されるものだが、どんな悪徳も、適切な分量と用法を守れば思わぬ画期的な効能を発揮することがあるのは、経験的に知られた地上の真理である。椿の豪胆な自己顕示は、辰彦の…

「Hopeless Case」 13

喫茶店を領する雑多な物音、誰かの低い話し声や、洗い物の食器が触れ合う硬く軽やかな響きや、静謐な音量で流れる異国の言葉の楽曲、それらの緊密な重なりが育む生温い居心地の良さに包まれて、椿は透明な幸福の感情を咬み締めていた。殊更に意識しない限り…

「Hopeless Case」 12

早春の柔らかな風が、埃っぽい街衢を懶惰に彩る水曜日の晴れた朝、椿は待ち合わせの場所に指定された本郷の小さな喫茶店で、静かにミラン・クンデラの「冗談」を読んでいた。尤も、充分な集中力を発揮して、その物語の奥地に分け入っていたとは到底言い難い…

「Hopeless Case」 11

川崎辰彦の勤める小さな出版社に、どうにかして雇ってもらおうという厚かましい魂胆が何時から椿の魂の一隅を占めるようになったのか、その明確な日付は曖昧に掠れていた。淡々とした事務的な物腰で、零細企業の哀切な世過ぎの風景を物語る辰彦の野暮ったい…

「Hopeless Case」 10

「素敵なイヤリングだね」 川崎辰彦かわさきたつひこの然り気ない賞讃は、事務的な会話の流れに極めて巧妙に織り込まれていたので、椿は一瞬、言葉の意味を掴み損ねた。そのとき椿の耳朶に揺れていたピンクゴールドのイヤリングは、亘祐と別れてから最初に迎…

「Hopeless Case」 9

我関せずの気儘な態度を貫くには相応の覚悟が要る。失恋の痛手に冷静な理智を曇らされた椿は暫く、怠惰で自由な生活に埋もれて世捨人の境涯に身を窶していたが、早春を迎えて就職活動が本格化すると、両親や教員からの社会的な圧力は俄かに強まって、彼女の…

「Hopeless Case」 8

吹き荒れる夥しい官能的な火箭の嵐を潜り抜けて、椿の生活は潔癖な修道女のように無垢な日課を刻み続けた。別に生来の豊富な好奇心が、燃え尽きた蝋燭のように涸渇したという訳ではない。ただ、彼女は昔の軽薄な人懐っこさを慎重に排除し、他人との適切な距…