サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(Could you confirm there’s no wrongness of me?)

*人間は誰でも間違いを起こす。過ちを犯し、誤認と錯覚に操られ、事実を曲解し、現実的な判断よりも希望的観測を重んじる。つまり、客観的事実に対して欲望に基づいた想定や期待を優先する傾向を生得的に備えている。これは人間の度し難い悪癖の一つである。
 新型コロナウイルスを巡って惹起された諸々の艱難は、国民的な不満と議論を呼び覚まし、生活の窮迫に喘ぐ人々の怨嗟の訴えは日増しにその勢威を募らせている。菅総理を筆頭に政府や自治体の首脳は悪し様に罵られ、オリンピックの開催強行や生温い入国制限に対する排外的な憤怒が巷間を席捲している。確かに総理大臣の意思決定の遅滞、表現力の欠乏は深刻な水準に達しているように見える。ただ、彼が殊更に劣悪な、無能な、退屈な人間であるとは断定し難い。誰があの地位に登ったとしても、多かれ少なかれ苦心惨憺は避けられない。外野から批難するのは容易だが、総理を罵るだけで世界が良い方向へ傾斜するようにも思えない。無論、政府には国民の批判を甘受し、応答する責任が建前として課せられている。その建前を大切に尊重することは、この国の社会的制度の総体を円滑に運用していく上で必須の擬制である。従って、記者の質問に対して明言の回避に終始する菅総理の腰砕けの姿勢を批判するのは国民の明確な権利である。
 問題は、総理を罵ってもコロナウイルスは根絶されないということである。総理が盆暗であろうと人気者であろうとどうでも構わないが、コロナウイルスには御退場頂く必要がある。多くの人が所得の減少に苦しみ、企業は止まらない業績悪化に青褪め、医療機関や保健所は地獄の過重労働を強いられ、あらゆる分野で不愉快な制約が忍従の対象となっている。会いたい人に会えず、行きたい場所に行けない社会が不幸であることは論を俟たない。だから、感染制御が重要であることは無論だが、最終的にはワクチンや特効薬の開発によってコロナウイルスの威力を衰弱させることが唯一の解決策である。ロックダウンに類する種々の社会的制約は、ウイルスの撲滅には聊かも寄与せず、ただ時間を稼ぐ為の処置に過ぎない。その意味では、ワクチンの接種が一向に進んでいない状況下で、緊急事態宣言を解除することは不可能である。いや、可能ではあるが、論理的に矛盾している。解除する理由がないからである。ワクチンの接種が進捗して、イスラエル英米のように新規感染者の劇的な低減が数値として明確になれば、漸く宣言解除の根拠が誕生したということになるだろう。尤も、副作用の頻発による健康被害が大規模に報告されるようになれば、ワクチン接種の推進という輝かしい正当な政策さえ、悲劇的な過ちというラベリングを冠せられることになるのだろうが。

*過ち、それは人間に付き纏う宿痾である。誰も例外ではない。政府の失策を糾弾する人々も、自身の生活においては、数多の失策を犯しているに決まっている。だから私は、揺るぎない正義の美名の下に、総理の愚かしい問答を一方的に批難する気にはなれない。総理が人より抜きん出て優れた人物ではないという平明な事実に失望するだけである。過ちを避ける為には、賢慮が不可欠であるが、これは一朝一夕に手に入る資質ではない。個別に、各自が錬磨する努力を怠らぬようにするしかない。或る現象的事実から、適切な推論によって、適切な予測を行い、自身の行動を制御し、不合理や過失を注意深く回避するように努めるしかない。けれども、人間の心身は脆弱なもので、疲労が溜まれば判断力や思考力は鈍るし、若者は経験の不足によって、老人は心身の衰弱によって、正しい判断を失する。老害を批判するのも結構だが、若者の浅慮も齎す被害の大小や性質について言えば大差ない。結局、愚昧の性質が異なるだけで、人間は誰でも多かれ少なかれ愚者なのである。だからこそ、賢者に憧れもする。とはいえ、賢者が絶対的な成功を約束されている訳でもないし、そもそも人間の能力には先天的な偏向が備わっているから、誰でも一律に、適切で正当な結論に到達するとは言い切れない。そうであるならば、結局のところ、人間は自分の愚かさを客観視し、適切な訂正を施す能力を鍛えるしかない。間違いを起こさないことだけではなく、起こした間違いを適切に、迅速に修正することにも多くの労力を投入する習慣を堅持せねばならない。言い換えれば、人間は自分自身の個別的な愚昧性の内実を、各自で明確に把握しておかなければならないということである。煎じ詰めれば、適切な自己理解を確保することだけが、人間を相対的に過失から遠ざけることの出来る唯一の方途なのである。

*誰も愚者としての生存を免除されない。相対的な優劣はあったとしても、本質において、人間の賢慮には限界と制約が課せられている。従って独断と偏見を忌避する為に、我々は自分自身の言動を入念に観察し、その長短を把握し、構造的な傾向性を調整し、何よりも先ずfactを重視する習慣を帯びなければならない。諸々の感情的なバイアスに振り回されたり、期待と推測を混同したり、反射的な判断に固執したり、多角的な検討を怠ったり、他人の見解を過度に重視したり軽視したり、不都合な真実を曲解したり隠蔽したり、理論に合わせて事実を改竄したりする、諸々の「愚昧」のパターンを熟知して、それを回避する手段を講じなければならない。他者の愚かさを批難するのは、理論上、極めて容易な、安易な行動である。何故なら、如何なる種類の愚かさとも無縁であるような人間は何処にも存在しないからだ。従って、手当たり次第に引鉄を絞るだけでも、糾弾と問責の銃弾は確実に何かしらの標的を撃ち抜くことが可能である。だが、そんな軽率な遊興に何の価値があるというのか? それは現状の追認に過ぎず、愚者を愚者であるがゆえに痛罵するのは、猫が猫であり、犬が犬であることに苛立つようなものだ。猫が猫であるのは単なるfactであって、それ自体に善悪は附随しない。人間が愚者であるのも同様で、重要なのは、愚かさを免れる方法を考えることだ。他者の愚昧を批難するとき、批難する者の愚昧は解消されるのではなく、単に一時的に視野から除かれているだけである。つまり、それ自体が錯覚に由来する愚かさの実例なのである。