サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

2016-07-01から1ヶ月間の記事一覧

私が無職だったころ

私は二十歳の時に最初の結婚をした。所謂「授かり婚」という奴で、入籍の三箇月後には息子が産まれる予定であった。そのときの配偶者は離婚歴があり、九歳の娘を連れていた。大学を一年で中退し、実家暮らしのフリーターとして怠惰な日々を過ごしていた私は…

「プレステ」の時代と、私の追憶 2 「アストロノーカ」(1998年)

当時エニックスから発売された「アストロノーカ」を知ったのは、確か「ファミ通」がきっかけであったように記憶している。或いは「スターオーシャン・セカンドストーリー」に附属していた体験版が購入の契機であったかも知れない。何れにせよ、このゲームは…

圧倒的な現実の渦中で忘れ去られるフィクション、或いはその変質

目の前の現実が余りに苛酷で、圧倒的なものである限り、人間の宿している内なるフィクションは窒息し、息絶えてしまう。 様々な物語、様々な空想、それらは現実との間に切り拓かれた距離の効果によって生まれるのであり、従って主観と現実との不可分な近さが…

14号原理主義者の告発

昨夜投稿した記事に関して、妻からクレームが入った。 saladboze.hatenablog.com 表題に「幕張」という文字を入れておきながら、実際には海浜幕張のホテルに関する思い出しか綴られていないが、貴方は何か考え違いをしているようだ、海浜幕張というのは幕張…

サラダ坊主風土記 「幕張」

私は今、千葉県千葉市花見川区幕張町の住人となっているが、一昔前までは幕張という土地に何の縁もないものと思い込んでいた。今の妻が幕張育ちで、その所縁でこの土地へ終の栖を築くことを決断した訳だが、それ以前の私は、千葉市という土地へ足を踏み入れ…

要するに「被投性」

私は難しい哲学的語彙など分からない。だが、ドイツの哲学者ハイデガーが「被投性」という特殊な造語を用いたという歴史的な事実については聞き齧った覚えがある。無論、その精確な定義を理解した上で今、この言葉をパソコンの電子的な画面上に出現させた訳…

路傍の酔漢

つい二週間ほど前の夜の話だ。私は勤め先の東京支社で日がな一日会議に明け暮れ、すっかり草臥れた体を引き摺って総武線の幕張駅へ辿り着いた。蒸し暑い夜だった。 家路を辿る途中に、昔ながらの酒屋があって、その脇に煙草の自動販売機と灰皿が置いてある。…

サラダ坊主風土記 「松戸」

中学三年生の春に大阪から引っ越して以来、十年以上も私は松戸に住んでいた。最初は胡録台というところで、父親の勤め先の社宅であった。その次は、結婚して江戸川に程近い古ヶ崎という地域へ移り住み、離婚すると松戸駅の近くに四万円の安アパートを借りて…

盗みたがる人

こういうことを人目に触れるところで書いていいのか分からないが、何でも備忘録として書き遺しておこうと思う。 私はわりと手癖の悪い人間であった。幼稚園に通っていた頃、何度か友達のおもちゃを盗んだ。どうしても欲しくて、我慢が利かず、こっそり盗み取…

サラダ坊主風土記 「枚方」

私は昭和六十年に大阪府枚方市で生まれた。枚方市というのは、大阪や京都へ出勤する京阪沿線の重要なベッドタウンである。という風なことは無論、小さい頃は知らなかった。だが、改めて思い返せば、私の住んでいた京阪本線樟葉駅の界隈は、数多くの団地を擁…

少年は己の半身と対決する ル=グウィン「ゲド戦記」

アメリカの作家アーシュラ・K・ル=グウィンの「ゲド戦記」第一巻「影との戦い」のハードカバーを図書館で借りて読んだのが、幾つの時だったかはもう覚えていない。小学生時代の私は図書館へ通うのが日課のようなもので、ゲド戦記を手に取ったのは恐らく、…

海を走る電車

宮崎駿の「千と千尋の神隠し」に、千尋とカオナシが電車に乗って、海の上を渡っていくシーンがある。「風の帰る場所」(文春ジブリ文庫)という本の中で、宮崎駿はこのシーンのことを「作品の山場」と呼んでいるが、実際あれは物語の重要な転換点になってい…

豚のダンディズム、アドリア海の静寂

宮崎駿のインタビューを集めた「風の帰る場所」(文春ジブリ文庫)を読んでいたら、「紅の豚」に関するインタビューがあり、あの作品の中で描かれていた景色の断片が眼裏へ甦ってきた。 小さい頃から「ナウシカ」やら「ラピュタ」やら「トトロ」やらを繰り返…

書き留められた思い出

文章を書くということの目的は、人によって様々だろうが、結局のところ、直ぐに空中へ掻き消えてしまう日常的な会話の数々とは異なり、或る出来事なり考えなりを文字に起こして紙やデータに定着させるということは、大袈裟に言えば、生きた証を樹てるという…

京都残影

私は大阪府の枚方市というところで、中学二年生の終わりまで生まれ育った。枚方市は大阪府の北東部にあり、京都府八幡市と隣接していて、私の住んでいた樟葉という地域は京都府との境界線が眼と鼻の先であった。 中学だったか小学校だったか忘れたが、学校の…

植松伸夫「ザナルカンドにて」

植松伸夫の作曲した「ザナルカンドにて」は、極めて美しい旋律の曲だ。スクウェアから発売されたPS2のロールプレイングゲーム「FFX」の中で印象的に用いられたこの楽曲には、単なるゲームミュージックという枠組みを超越したクオリティが宿っている。…

「天冥の標」について再び

「天冥の標」第九巻を読んでいる。最初に本屋で立ち読みしたのは、確か第五巻の「羊と猿と百掬(ひゃっきく)の銀河」で、シリーズ物だと気づいてから「メニー・メメニー・シープ」を読んで惹かれた。私好みの荒唐無稽な妄想が次々と尤もらしく書き綴られる…

「叱責」に就いて

誰でも食う為には働かねばならず、働く以上はその作業なり行為なりが他人の為に、社会の為に役立っていなければならず、少なくとも顧客や上長や同僚や後輩から必要な存在であると公的に承認されねばならない。これはどんな業種でも職種でも決して避けて通る…

「身分」という擬制 丸山眞男「日本の思想」に関する読書メモ 3

岩波新書の『日本の思想』には、表題の論文以外にも幾つかの文章が収められている。そのうちの一つ「『である』ことと『する』こと」は、丸山が昭和三十三年に行なった講演の記録に基づいて再構成されたもので、ネットで検索してみると、高校の現代文の教科…

「仏教的な時間」への憎悪 三島由紀夫「金閣寺」について

久々に三島由紀夫の「金閣寺」(新潮文庫)について書く。 天から降って来て、われわれの頬に、手に、腹に貼りついて、われわれを埋めてしまう永遠。この呪わしいもの。……そうだ。まわりの山々の蝉の声にも、終戦の日に、私はこの呪詛のような永遠を聴いた。…