サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

豚のダンディズム、アドリア海の静寂

 宮崎駿のインタビューを集めた「風の帰る場所」(文春ジブリ文庫)を読んでいたら、「紅の豚」に関するインタビューがあり、あの作品の中で描かれていた景色の断片が眼裏へ甦ってきた。

 小さい頃から「ナウシカ」やら「ラピュタ」やら「トトロ」やらを繰り返しVHSのダビングされたテープで飽きるほど見返していた私の眼に、中年の飛行艇乗りを主役に据えた「紅の豚」は異質な世界の感触を保持しているように映った。それは良くも悪くも、大人の世界の論理で出来上がっていて、トトロのようなファンタジーとも、ラピュタナウシカのような活劇とも異なる、奇妙な宙吊りの地点に爪先立っているような気がした。いや、鑑賞した当時に、そのような理解へ達した訳ではないだろう。感じたのは、微妙な空気の違い、画面から放射される精妙なニュアンスの変化のようなものだけだ。

 豚は饒舌ではなかった。言葉数は少なく、とても渋い声を響かせていた。彼が何故、豚なのか、それは誰も知らなかった。いや、知る必要はそれほど大きくなかったに違いない。彼が豚であることに、登場する周囲のキャラクターは疑念を抱いていなかったからだ。それは誰も街中を平然と歩くドラえもんに戸惑いを示さないのと同じことだった。彼はトップガンのような超高空を超高速で飛び抜ける、ロケットのような戦闘機に登場しているのではなく、木製の骨組みと単純な機関銃を組み合わせた、優雅な飛行艇を愛していた。古き良きテクノロジーへの憧れ、それが古き良き異国情緒に織り込まれて、閑寂な画面を形作る。良くも悪くも、ポルコ・ロッソは地上の理窟に縛られていない。そうでなければ、豚の姿のまま、市民生活のささやかな幸福を謳歌することなど、堪えられなかったに違いない。彼が抱え込んでいる否定の正体は、物語の中では明示されない。ジーナとの関係? 死んでいった戦友たちへの複雑な感慨? そうやって、何かの明快な主題を取り出すことは寧ろ容易い。確かに彼はそういった諸々の感情を内包しているだろう。自罰として、豚になる魔法を自ら纏ったのか? 死んだ奴らは、皆いい奴だったと彼は言う。だが、そんな悔恨の意味合いを、幼い私が理解出来る筈もなかった。

 戦争体験というものは、身に染みて分かるものではない。日本人の殆どは、戦争を知らない。ポルコの胸中に、誰が想いを馳せられるのか。未だに焦点の定まらない映画だと言えば、確かにその通りなのだ。

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