サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

私生活・回想

シーソーと糾える縄

我ながら、顧みれば迷ってばかりの人生で、今でも日々迷妄の種は尽きず、生きることの正解が何なのか分からず、右へ左へ彷徨するような生活を送っている。だから、達観した人生の名人のような境涯に落ち着いて、艶やかな木製のパイプでも燻らせながら、遠い…

三十二歳の男

結局、自分という生き物の組成を理解する為に、私は色々な事柄へ関心を寄せて、彼是と益体のない思索に耽っているのだろう。他人を理解することは、自分を理解することよりも時に容易く感じられる。それは私が、他人の外在的な事実だけを捉えて考察を加える…

「不倫」に就いて

漸く精神的な整理がついてきた気がするので、恥を忍んで、考えたことを書き遺しておきたい。人目に晒すような話ではないが、これを書くことは、私が建設的な未来へ向かって生きていく上で本当に重要なことなのだ。 私は以前、短い期間であったが不倫をしてい…

年の瀬雑感 2017

今年もぐんぐんと暮れていく。始まる前は果てしない地獄の回廊に思われたクリスマス商戦も、過ぎ去ってみれば一瞬の閃光のように儚い記憶である。昨年は金土日の三連休、今年は25日が平日ということで、売上の推移には変動があった。尤も、カレンダーの変…

「苦悩」に就いて

幼い頃、私は真面目な優等生というタイプの人間であった。幼稚園に上がるか上がらないかという頃から、公文式へ通わされていた御蔭で、小学校に上がってから暫くの間は、勉強に躓くということがなかった。テストは満点を取るのが当たり前で、先生や級友の保…

「悼むこと」に就いて

余り具体的なことを書くと差し障りがあるので、詳細は省くが、今日、勤め先の店舗の固定電話に、常連の御客様(仮に「Sさん」としておこう)から、私宛てに電話が掛かってきた。 最近、余り顔を見なかったので一頻り久闊を叙した後に、Sさんは今度の日曜日…

「自信を持つこと」に就いて

どうもこんばんは、サラダ坊主です。 昨春から約一年間、一緒に働いてきた部下の女性社員が今月で異動になり、後任の女性社員が配属されてきて、三日間の引き継ぎ期間に入っています。 新たに着任した彼女の働きぶりを見ていて、最も強く感じたのは、根本的…

「赦すこと」に就いて

どうもこんばんは、サラダ坊主です。 今日、昔の部下(男性です)と電話で話す機会を持ちました。今は転職して、別の会社で働いているのですが、久々に逢いましょうという連絡が届いたのです。何かあったのかと思い、メールで「そろそろ結婚の報告か?」と冷…

私たちは、誰も答えを知らぬままに生きている

どうもこんばんは、サラダ坊主です。 世間はゴールデンウィーク真っ盛りですが、小売業の陣頭に立つ私は本日も仕事で、家に帰り着いたのは午後11時近くでした。 昨春の人事異動で、家が幕張、職場が千葉という関係性になって以来、10時過ぎには帰宅する…

二〇一七年四月の端書(銭金の亡者)

読むことに熱心でいると、次第に書くことが疎かになるのは、難しい問題であるとも言えるし、当然の問題であるとも言える。読むことと書くこと、何れが劈頭を飾るべき要素であるか、わざわざ小難しく考えずとも、読むことが先決であるに決まっている。生まれ…

間もなく、春が来る

何処の世界でも似たり寄ったりだろうが、三月から四月にかけての季節というのは、出会いと別れが目紛しく混じり合う時期で、何だか頭の中が遽しく煮え立つような心持がする。私の勤め先でも大幅な人事異動の辞令が日夜飛び交う頃合いで、一年間同じ店舗で一…

一歳児のための、記憶の里程標

三月十五日に、娘が一歳の誕生日を迎えた。 saladboze.hatenablog.com 上記の文章を、落ち着かない、ふわふわとした心境の中で一人、自宅の居間でパソコンに向かって打ち込んでから、一瀉千里に、一年間という歳月が流れ去った訳だ。そして生まれたばかりの…

ただ、そこにある道を往くばかり

ミラン・クンデラの「小説の技法」(岩波文庫)を読み終え、次の書物として安部公房の「他人の顔」(新潮文庫)を読み始めた。通読には未だ時間が要るので、内容に関する覚書などは差し控えておくが、滅法面白い。十年以上前、大学に進んだばかりの生温かい…

「愚昧な子供」としての私

読まなければならない、或いは端的に「読んでみたい」と思う本は幾らでもあるのに、いざ取り掛かると案外頭に入らなくて投げ出してしまったり、一冊の読書に長い日月を費やし過ぎて飽きてしまったり、といった経験は日常茶飯事である。昔は、つまり十代の頃…

書くこと、紡ぐこと

世間が寝静まった夜に、こうやってパソコンに向かって当て所もなく文字の列なりを打ち込み続けるという奇特な習慣を己に課すのは、我ながら異様な振舞いだと感じない訳ではない。そもそも、黙々と文章を書き連ねるという行為、具体的な誰かに宛てた私信とい…

徒然なるままに

最近、以前に書き始めて暫く放置していた「ツバメたちの黄昏」という小説の続きを書くことに熱中している。いや、熱中と呼ぶには程遠い水準の熱量で書き綴っているのだが、その背景には、当て所もなく寄る辺ない雑文を草するばかりでは満たされない「己の内…

年の瀬雑感

年末商戦の山場の一つ、クリスマス商戦が終わった。今年は金土日の三連休という曜日並びの効果で、私が配属されているような百貨店立地の店舗には多くの集客があり、特に24日のクリスマスイブは昨年と比べて、爆発的な売り上げの伸び方であった。 毎日始発…

希望の代名詞としての「こども」

間もなく生後九箇月を迎えようとしている娘の挙動を日々眺めていると、色々な感情や想念が去来する。上機嫌に遊んでいるときの笑顔は格別で、天使のように愛らしく思えるが、機嫌が悪くて、口に銜えたおしゃぶりを寝室に充てている和室の暗がりへ投げ捨てる…

二転三転する生き物

長文の記事を書くと宣言しながら、早速その方針に飽きてしまった。 saladboze.hatenablog.com 長文の記事を書くのもいいのだが、そうやって自らのブログの方針として掲げて、自縄自縛の状態に陥ってしまうと、パソコンを開いて一つの記事を仕上げることが無…

赤ん坊の頭の中では何が起きているのか?

相変わらず、風邪気味である。手短に書く。 もう直ぐ生後八箇月が経とうとしている私の愛娘を眺めていると、不思議な感慨に囚われることがある。彼女は生まれてから未だ一年も経っていない、つまり彼女の人生は四季の一巡さえ経験していない段階にあるという…

ジュール・ヴェルヌの想像力と、若き日々

母方の祖父母の家は、山口県の下関市にあった。子供の頃は夏と冬に、新下関の駅からタクシーに揺られ、坂道に面した古びた一軒家に運ばれるのが慣例であった。祖父は昔、捕鯨船の機関長を務めていて、時には南氷洋まで遠出して半年以上も家を空けることもあ…

図書館の子供たち

私は小さな頃から読書が好きで、小学生の頃から図書館に通うことが重要な趣味の一つであった。当時は未だ、大阪府枚方市に暮らしていて、樟葉駅に程近い樟葉図書館が、私の主要な拠点であった。自転車を乗り回して出歩くことが日常になってくると、わざわざ…

「知らない=つまらない」は、つまらない

私は読みたくなる本が新たに見つかると直ぐに、今手許に置いてページを捲っている書物を投げ出してまで、そちらへ乗り換えたくなる衝動に強く抗えない質である。移り気というか、浮気性というか、余程熱中して読み進めているものでもない限り、そうした衝動…

未来を切り拓く「追憶」

何かを思い出すという営為は、一歩踏み誤ると、直ちに怠惰な感傷へと姿を変えてしまう。誰しも郷愁の甘美な感覚には、冷淡ではいられないに違いないが、それが過ぎ去った世界の哀惜に留まるどころか、寧ろ二度と復権することのない失われた記憶への異様な愛…

N君の想い出

何とはなしに、漠然と思い出したことがあるので書き留めておく。 生後七箇月になる娘は、日々元気に動き回り、口の中には小さな乳歯の萌芽のようなものも見え始め、刻々と成長しつつあるということが実感として明瞭に迫ってくる。小さな躰、大人から見れば本…

柔軟で可塑的な「時間」の感覚

夕暮れ時、といっても既に夜陰に包まれた時刻であったが、京成幕張の駅前の床屋へ立ち寄って髪を切ってもらった。 私は生まれてこの方、美容院というものに世話になった経験がなく、床屋のことしか分からないのだが、手許に神経を集中せねばならない職業であ…

怪しい不動産屋

今年の春に、私は千葉銀行の船橋支店で最終決済を終え、完成したばかりの新居へ引っ越した。物件を探し出したのは去年の夏頃で、妊娠した妻が、今後の育児環境などを踏まえ、両親と姉夫婦が暮らし、幼い頃からの友人も多数暮らしている幕張に家を買うことを…

迷いが生じると、途端にグダグダになる男の弁論

生きていると、自分自身との付き合いも段々と長くなっていく訳で、しかも色々と新しい経験を積んだり、今まで味わったことのない場面に遭遇したりすることを繰り返すうちに、それまで知らなかった自分の側面というものを発見する機会も増えていく。そうやっ…

「叱責」という点滴

私は東日本大震災の起きる直前の2011年晩冬から三年余り、市川市の店舗で店長を勤めていた。現在の妻は、その店舗で働いていたアルバイトスタッフであった。 先日、当時一緒に働いていたパートの主婦三名を、私の妻が家に招いた。私も休みだったので、同…

退屈な人生の、退屈な燦めき

久々に朝から晩まで働いて、随分と疲れを覚えた。これでも小売の現場に立つようになって十年を越え、今更「通し」の立ち仕事に心身を参らせる虞はない。だが、昔のように、つまり二十代前半の頃のように、無我夢中で働き抜くことの尊さのようなものには、余…