サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

精神・心理・観念

「迎合」に就いて

直ぐに他人の意見に賛同したり、他人の思惑に阿ったりする人間は少なくない。だが、一方で人間には堅牢で頑迷な「自我」というものが備わっていて、それが他人の意見や思惑に対する反抗的な姿勢を育む根拠となる。 誰でもこの二つの側面は交互に顕現するもの…

己の善性を誇張する勿れ

自分では如何に厳しく冷静に現実を見凝めている積りであっても、人間の主観には必ず生得的な偏倚と後天的な歪曲の二つが絡み付いているものである。純然たるリアリズムというのは理論的に想定された不可能な観念に過ぎず、実際の生身の人間は決して「純然た…

幸福に堪えられない人間

人は誰しも幸福であることを願うものだが、幸福には厄介な側面が備わっている。それは「何事も起こらない平穏に順応する」という論理的構造を含んでいるが、その幸福な平穏は必ずしも人を満足させない。退屈は人を殺しかねない。古伝に「小人閑居して不善を…

「共同性」への普遍的な欲望

人間は誰しも、自分と他者とを隔てている根源的な境界を打破し、超越したいという欲望に精神を搦め捕られている。この普遍的な欲望を簡潔に「共同性への欲望」と名付けてみたい。自分という孤立した個体の枠組みから離れて、絶対的な境界線を踏み越えたいと…

ストイシズムの閉鎖的な快楽

人間は絶えず、あらゆる種類の欲望に取り巻かれて、危うく不安定に揺らぎながら生きている。欲望は人間の主体的な理性に先立って、人間の深層から殆ど如何なる脈絡も持たずに迫り上がってくる、自律的な衝動である。その欲望が発する要求の総てに唯々諾々と…

「私」を解体する力としての「恋愛」

恋愛というのは必ずしも自発的な意志によって制御されるものではなく、往々にして突然、意識の枠組みを揺さ振るような形で、知らぬ間に押し寄せる感情の形態である。無論、それが所謂「恋人」同士の関係性として立ち上がる為には、理性と意志の力に多くを負…

「慈悲」と「恋情」の境界線

愛することは、或る人間をバラバラに解体することへの根源的な抵抗として定義されるべき営為である。愛することは、相手を腑分けすることの対極に位置する。対象の総てを丸ごと包摂し、その総ての要素を善悪や好悪に関わりなく受容することが愛の本質であり…

共犯的幻想としての「恋愛」

恋するとき、人は盲目になると、よく言われる。確かに恋愛が幻想である以上、そして私たちの認識や理性に奇怪な覆いを被せる心理的な魔術である以上、傍目には恋する当事者たちの言動が、有り触れた現実に対する理性的な判断を欠いているように見えることは…

恋愛の無倫理性

恋愛という極めて主観的な営為には、倫理という規範的な理念が存在しない。恋愛を道徳的な御題目によって縛ったり制限したりすることには意味がない。それは恋愛を殺戮する為に下される鉄鎚のようなものであり、恋愛の根源的な反社会性に対する掣肘である。…

「愛情」に就いて

最も原始的な愛情の形態を、動物的な交接への欲望だとするならば、最も純化され高められた愛情の形態は、神々しい「無償の愛」或いは「無私の愛」である。無論、如何なる見返りも求めない愛情という崇高な理念が、宗教的な幻想の産物に過ぎないことは、経験…

「愛」と「理解」の相剋をめぐって

人を正しく愛する為には(愛情に正しさという倫理的規範を求めるのならば、という仮定的な条件下において)、相手の考えや心情を精密に理解する為の努力を怠ってはならない、という尤もらしい命題が頻々と唱えられている。それは一見すると、疑いようのない…

「結婚」に就いて

結婚は、恋愛という感情的な熱病とは根本的に異質な、或る社会的な制度である。恋愛が常に個人の情緒だけを頼りに営まれるのに対し、結婚は飽く迄も社会的な制度の規定に拘束されている。恋愛は常に主観的な営みであって、それが傍目には如何に不毛で愚昧な…

「恋愛」に就いて

恋愛とは、簡単に要約すれば「特定の対象への執着」である。或いは「究極の依怙贔屓」と呼び換えてもいい。 日本語には「愛憎相半ばする」という表現があるが、実際、特定の対象への執着としての「恋愛」は、相手に対する肯定的な感情だけで純粋に構成されて…

「日常」に就いて

終わりのない日常生活は、退屈と虚無の代名詞である。だが、同時に日常生活は、反復される静謐な幸福の完成された形態でもある。 日常を、例えばヒロイズムと対置して二元論的に相克させる論理が、必ずしも正鵠を射ていないことは端的な事実である。無限に平…

「自立」に就いて

「自立」という言葉は当たり前のように気安く用いられて、誰にとっても耳に馴染のあるものだと思う。誰でも小さいときは親に依存し、何もかも勝手に整えられて、自分で難しい判断を積み重ねる必要も持たずに生きることが出来た。だが、大人になれば、そんな…

「勇気」に就いて

勇気を持つことは、誰にとっても簡単な行為ではない。勇敢であること、様々な艱難を懼れないこと、不安や絶望に呑み込まれないこと、あらゆる先入観を信じないこと、これらの崇高な資質は、万人によってその意義を承認されながらも、実践の現場においては様…

「個人的な辞書」に就いて

生きることは思い出すことに似ている。生きているだけで人間の頭脳には重油のように記憶が溜まり、時に醗酵し、時に蒸発する。生きることは記憶を積み重ね、その網目を複雑な紋様にまで高めていくことだ。そうやって人間は生きることに慣れ親しんでいき、一…

「孤独」に就いて

世の中には「孤独を懼れるな」という激励に満ちた言説が飛び交っている。実際、孤独そのものを懼れても無益であることは確かな事実であり、多かれ少なかれ、人間が孤独という止むを得ない状況に呑み込まれることは少しも奇態な現実ではないと言うべきだろう…

「プライド」に就いて

「自信を持てない人ほど、プライドが高くなる」というのが私の個人的な見解である。自信というのは文字通り「自分で自分を信じること」を意味するが、自分で自分を信じられない性格の人間は往々にして「他人の評価に基づいて自分自身を信頼する」という迂遠…

「決断」に就いて

決断することは常に難しく、多くの危険を孕んでいるものだ。決断するとき、私たちは綿密な熟考を経ている場合もあるし、単なる素朴な思い付きだけを足掛かりに選んでいる場合もあるが、何れにせよ、決断が困難であることには変わりがない。綿密な検討を積み…

「卑屈」に就いて

自分で自分の人生に責任を持つことを拒むと、人間は必ず「卑屈」になるか、或いは「虚勢」を張るようになる。自分で自分を信頼することが出来ないという精神的状態は、自分の人生に自分自身の判断で責任を取ろうとせず、総てを外在的事象の結果として捉えよ…

「正論」に就いて

「正論」は凶器のようなものである。無論、これは一種の極論に等しい命題だ。如何なる正しさとも無関係に、己の実存を歩み続けることは簡単ではない。如何なる正しさも肯わないままに、自分の人生を切り拓いたり、苛酷な試練に挑戦したりすることは不可能で…

「存在しないものだけが美しい」という理念 2

「存在しないものだけが美しい」という理念は、あらゆる倫理と対立する、若しくは倫理的なものと無関係に存在する命題である。存在しないものであるからこそ、美しく感じられるという精神的な構造には、絶えず死臭が染み込んでいる。 無論、あらゆる「美しさ…

「存在しないものだけが美しい」という理念 1

「存在しないものだけが美しい」という理念の形態に就いて書いておきたい。 予め注意を促しておくが、この「存在しないものだけが美しい」という命題は万人に公認され、あらゆる場面に普く該当するものではない。広範な領域において確認し得る強力な思想の様…

個人的であること、主観的であること

個人的であることと、主観的であることは、一見すると似通った言葉=観念に思われて、容易く混同されがちな傾向があるけれども、両者の意味合いは本質的に異なっているのではないかと思う。 主観的であるということは、物事を客観的に捉えられないという意味…

「本音」という言葉を、甘く見てはいけない

どうも今晩は、サラダ坊主です。 内容的には、前回の記事と繋がり合うものになりそうです。 saladboze.hatenablog.com 書くことの目的、或いは本質に関して、これまで私は、幾度か記事を認めてきました。無論、書くことの目的などという抽象的な御題目に対し…

圧倒的な現実の渦中で忘れ去られるフィクション、或いはその変質

目の前の現実が余りに苛酷で、圧倒的なものである限り、人間の宿している内なるフィクションは窒息し、息絶えてしまう。 様々な物語、様々な空想、それらは現実との間に切り拓かれた距離の効果によって生まれるのであり、従って主観と現実との不可分な近さが…

書き留められた思い出

文章を書くということの目的は、人によって様々だろうが、結局のところ、直ぐに空中へ掻き消えてしまう日常的な会話の数々とは異なり、或る出来事なり考えなりを文字に起こして紙やデータに定着させるということは、大袈裟に言えば、生きた証を樹てるという…

ナルシシズムとビジネス

ナルシシズム、つまりは自己陶酔の心的機制は、傍目には極めて醜悪なものであり、多くの場合、それは人格的均衡の破綻若しくは未熟を意味するものとして受け止められる。無論、誰しも多少なりとも自己愛という感情を持ち合わせておかなければ、生きていくこ…

「原罪」の齎す平等性の思想(「宗教的なもの」をめぐって)

私の父方の家は浄土真宗、母方は真言宗で、何れも名目的には仏教徒ということになるが、私自身は信仰心というものがほぼ皆無である。母親は宗教的な事柄には全く無関心で、自分の芸術的な趣味に興じることに専念している。一方、父親は定年退職を迎えてから…