サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

強さを褒められることよりも、弱さを赦されることを

①「脆弱性」(vulnerability)の問題

 人間は誰でも多かれ少なかれ孤独に弱く、他者からの愛情や承認に飢え、孤立よりも連帯を愛することの多い生き物である。孤独は、それだけで人間の精神や肉体から、社会性という言葉で指し示されるような類の双方向的な開放性を滅茶苦茶に引き裂いてしまう。だからこそ、我々は時に恐るべき狂態や犯罪を演じてでも、性急な態度で他者へ通じる神秘的で友愛に充ちた「回路」を開拓しようと試みる。例えば痴漢という卑劣で歪んだ犯罪でさえ、その根底には切迫の余り黒々と混濁した「他者」への劇しい欲望が蟠り、煮え滾っているのではないだろうか。たとえ痴漢の犯人が、被害者の女性を純然たる「肉体」としてのみ捕捉しているのだとしても、そこに「他者」への欲望の片鱗さえ認めないという判定は、聊か偏向しているだろう。

 人間は自己への揺るぎない信頼を持ち、自分の人生は好調に推移していると思い込んで疑わないとき、他者を欲する切実な欲望に拘泥することが少ない。何もかも順風満帆で、自分は総てを巧く取り仕切っていると考えられるのならば、他者の情愛に縋る必要は生じないし、堅固な外界を前にして途方に暮れる心配もない。何らかの素晴らしい個人的な夢想や野心に没頭しているとき、彼は他者の存在を失念して、或る幻想的な孤独の内に惑溺していると言える。完全に集中した人間は、他者の存在を要請しない。これは誰にとっても心当たりのある経験的な実感ではないだろうか。

 だが、こうした幻想的な孤独を、つまり充実した孤独を、果たして孤独と呼べるかどうかは分からない。他者を意識しない限り、或る孤立した生存が痛みや渇愛に苦しめられることはない。孤独が独特の寂寥の苦しみを我々に齎すのは、決まって他者の存在が鋭敏に知覚されている場合に限られている。例えば劇しい歯痛に苦しめられ、そのことで意識の全面が占有されているとき、我々は他者を気遣う余裕を失うと同時に、孤独の苦しみを明瞭に感受する余裕すら同時に失っているのではないだろうか?

 他者を求める感情は当然のことながら、他者の存在に対する認識と同期している。他者の存在へ通じる回路の欠如を感じるとき、或いは隔たりを感じるとき、我々は奇怪で深甚な疲労を改善する手立てを、他者の内側に探し求めて彷徨する。或いは自信を喪失し、迷妄に苛まれ、自分自身との明確で宥和的な合一の状態を破られたとき、我々は心細さを覚え、寂寥の感情に打ちのめされて、他者の頼もしく優しい腕に縋りたいという息苦しい欲望を制御し切れなくなる。

 例えば人間が恋に落ちるとき、往々にして「自己」という明確な存在の組成に何らかの齟齬や狂いが生じている。首尾一貫した堅牢な自己、明瞭な描線に従って活動する安定した主体的自己、そうした自画像が何らかの罅割れに見舞われているとき、我々は不安定な感覚に苦しめられ、支えとなる存在を強く欲する。

 人間が本当の意味で他者を信頼し、秘められた内在的な領域の扉を解錠して、相手の存在を、自分自身の存在の最も滑らかで脆弱な領域へ導き入れるとき、紐帯となるものは「弱さ」ではないかと思う。一般的に社会は弱肉強食、優勝劣敗の身も蓋もない原理に支配されて運営されており、弱者は滅び去り、強者が生き残る自然界の素朴な原理を、特に「格差社会」と呼ばれる現代の日本においては、人々は動かし難い現実の絶対的な秩序として、半ば絶望しながら受容しているように見える。社会を構成する枢軸としての「体制」は、優れたものに評価と褒賞を授け、劣ったものに厳しい訓育の措置を講じることによって、社会の全体的な進化と改良を促そうと試みる。優れた業績を上げ、社会の発達に貢献した人間が、然るべき名誉と報酬を受け取るのは少しも奇異な話ではない。だが、或る人間の明瞭な「美質」に向かって捧げられる夥しい喝采は、必ずしも人間同士の強固な紐帯の成立を意味しない。それはもっとパブリックで、厳しい競争原理に晒された、輝かしい栄光である。しかし、栄光によって結び付けられた人間たちの瓦解は、案外に容易なのではないかと思う。

 子供が、学校の勉強で良い成績を取って褒められるのは、社会的な評価であり、実績と行為に対する褒賞である。それは愛情と呼ばれる、あの奇態な情熱と理知の混合された活動とは聊か異質な事象である。愛情は、相手の強さを褒め称えるのみならず、相手の弱さに寛大な愛着を示すものである。相手の欠点が何もかも弾劾されるべき汚らしい罪悪のように感じられるのならば、そこに愛情は存在しない。何故なら、愛情は如何なる峻厳な正義とも無縁の感情であり、あらゆる正義の挫折を包摂する巨大な情熱の異称であるからだ。

 人間が他者の愛情を感じるとき、それは己の強さを褒められたときではなく、己の弱さを赦されたときであると私は思う。勿論、人間には、己を絶えず成長させていく為の努力や錬磨が求められるものであり、従って正義の理念が我々の社会から駆逐されることは有り得ない。高みを求め、努力を積み重ね、相互に切磋琢磨して、誰も切り拓いたことのない世界へ辿り着こうと悪戦苦闘する人間の直向きな眼差しが美しいことは論を俟たない。けれども、そうした角度だけで人間の実相の全貌を捉え切ることは不可能である。人間は強弱のアマルガムであり、誰もが夥しい美質と汚点の複雑な混淆の中で生きている。それは必ずしも「脆弱性」(vulnerability)の中に居直っても構わないという意味合いではない。個々の欠点は徐々に矯正されて然るべきであろう。しかし、強さに向かって束ねられ、積み重ねられた努力の成果は必ずしも脆弱性の全面的な排除と改善を意味するものではないのだ。

 誰もが脆弱な部分を持ち、それを日頃は外界の脅威から隠して、庇うように生きている。その脆弱な部分を悉く鉄筋の入ったコンクリートのように丈夫で無機質なものに作り変えることは出来ない。人間の実存的な本質は常に、その人間の最も脆弱な、内在的な領域と強固に結び付いている。言い換えれば、強さに対する称讃は、最も表層的な栄光なのである。強さの中に、個人の実存的本質が開示されることはない。社会的な仮面の裡に、その輝かしい栄光と名誉の渦中に、その人間の最も脆弱で繊細な本質が塗り込まれていると考えるのは、人間性に関する省察としては浅薄なものである。

 愛することは、相手の強さを褒めることではなく、その弱さを赦すことであり、或いはその繊細な脆弱性に黙って寄り添うことである。丁々発止の論戦が絶えず争われている社会的な戦場の血腥い風景から遠く離れて、何時でも人間の秘められた深層に揺曳している実存的な中核の存在に想いを馳せること。それこそ「慈愛」というものではないだろうか? だからこそ、相手の消極的な「負」の側面に直面した途端に色褪せる愛情とは、恐らく単なる社会的な陶酔であって、そもそも最初から「慈愛」の称号には値しなかったのだ。相手の美しい姿だけを眺めて心を奪われるのならば、それは浮薄な恋心ではあっても、どうせ一過性の華やかで儚い夢想的な麻疹に過ぎない。相手の醜い部分を目の当たりにして、それさえも相手の脆弱性として容認すること、それが「慈愛」という崇高な理性的情熱の最も悲劇的で充実した意義なのではないか。

②「慈愛」と「正義」の厄介な関係

 過日、女性に対する暴力や金銭の横領を週刊誌に暴かれて、急遽芸能界からの引退を発表した「純烈」の友井雄亮氏に関する報道を漫然と徴しながら、配偶者や恋人に対する暴力の孕んでいる奇怪な性質に就いて考えざるを得なかった。本来、配偶者や恋人は「慈愛」の対象であるべきだが、相手の欠点に腹を立てて啀み合うという状況は誰の身の上にも生じ得る凡庸な現象であり、それは両者の関係が、その出発点において相手の「善性」に対する肯定的な感情に由来している為ではないかと思われた。無論、そのこと自体が、つまり相手の美質や長所に惹かれることが蹉跌の種子だと言いたい訳ではない。恋愛であれ、それ以外の関係であれ、人間の人間に対する肯定的評価が、相手の美質に魅惑されることによって、その審判を開始することは至極当然の成行である。

 しかし、関係を構築する過程において、相互的な理解が深まると共に、我々は相手の秘められた暗部の存在に目覚めていくことになる。美質という絶対値が、周囲の環境的与件の変動に基づいて無限に正負の符号を反転させる性質を備えていることは周知の事実である。だから、或る美質に惹かれることと、或る欠点に苛まれることは、同じ現象の異なる側面に過ぎず、何れか一方のみを抽出して取り扱うことは原理的に不可能である。従って、相手の美質に惹かれた瞬間から既に、我々は潜在的な仕方で相手の暗部との接触を命じられているのである。

 友井氏は引退を表明する会見の中で、同棲相手の女性に繰り返し暴力を揮った理由に就いて「自分の弱さ」という表現を用いた。だが、この言い方は的確だろうか? 彼の暴力的行為の根底には「他者の弱さに対する寛容の欠如」という精神的特徴が横たわっているものと推察される。彼は日頃、他人の弱さを侮蔑的に扱っていただろう。他人の脆弱な部分を踏み躙ることは、強い人間に許された当然の権利だと信じていたのかも知れない。だが、社会的な批判を浴びた途端に「自分の弱さ」を持ち出すことで、弱さに対する寛容を慌てて購おうと試みるのは如何にも拙劣な選択であったように思われる。

 だが、問題の構造はそれほど単純な代物ではない。罪を犯すこと、それは確かに人間の脆弱な部分に由来する惨禍である。友井氏は弱者を虐げることで、自ら社会的な弱者の立場に頽落した。弱者を虐げた人間を断罪することは立派な社会的正義である。そのこと自体は疑いを容れない。だが、罪を犯した人間に対する不寛容もまた、一つの弱者に対する虐待には違いない。我々は弱者に対する不寛容という悪徳の、無際限な循環の裡に住まっている。弱者に対する寛容が「慈愛」の本質的な原理であり、機能であることは誰でも弁えている。だが、罪人が罪人であることによって社会的弱者の地位に縛り付けられている事実に対して、寛容の美徳を発揮することの困難さから、我々は眼を背けているのではないだろうか? 我々は忌まわしい悪人が逮捕されたことに拍手喝采を惜しまない。これで社会の平和は恢復されたと安堵する。だが、逮捕された後の、罪人の脆弱性に対する寛容の問題が真剣に論じられることは少ない。だからこそ、日本では死刑廃絶という国際的な潮流に反するように、罪人への厳罰化を望む輿論が根強いのだろう。児童虐待の罪を犯した人間は峻厳な批難を浴びせられ、社会的に抹殺される。子供という最も象徴的な弱者に対する暴力が、我々の良心と正義を高ぶらせることは当然である。或いは性暴力の犯人に対する厳しい断罪の声を徴してみてもいい。女性という弱者(この表現の性差別的なニュアンスに就いては別途論じることにしよう)に対する醜悪な暴力と侮蔑に就いて、社会的な良心が劇しい嫌悪を示すことは健全な進歩であると言える。だが、児童虐待や性暴力の加害者に対する顕著な不寛容は、煎じ詰めれば、虐待の加害者が実践した弱者への不寛容と、構造的には同一ではないだろうか?

 児童虐待の加害者に対する更生支援の取り組みは実際に行なわれている。被害者のケアが何よりも重要であることは火を見るより明らかであるが、同時に加害者の矯正という問題にも取り組まなければ、つまり虐待の加害者の「脆弱性」に対する最低限の寛容が社会的に維持されなければ、こうした虐待の連鎖は決して廃絶されない。子供という弱者を虐待した人間が、社会的正義によって虐待されるという閉塞的な輪廻の状況は、正義という理念の本質的な限界に就いて我々に重要な示唆を与える。正義は慈愛によって補完されなければならない。

 脆弱性の無条件の肯定と容認は、社会の度し難い堕落を喚起するだろう。従って「慈愛」の重要性を提唱することで「正義」の社会的な機能を抑圧するのは賢明な措置ではない。問題は、脆弱性に対する直視である。それは人間の弱さを隠蔽したり反動的な仕方で美化したりする奇怪な慣習の廃絶を意味する。我々は人間の弱さを、毀誉褒貶と無縁の地点から眺めて、沈着な是正を図るしかない。強さの肯定が直ちに弱さの否定に帰結する単純で粗雑な論理から脱却しなければならない。寛容とは短絡的な判断の否定であり、充分な「思慮」を蓄積することの重要性に対する信仰の異称である。言い換えれば、寛容とは理性の働きを重んじることに他ならない。理性の役目は諸々の脆弱性の欠陥を糾弾することではなく、理想的な正義の理念を声高に提唱することでもなく、黙って現実の構造を、つまり「真実」を探究することに集約される。詳さに眺められた真実は、自ずと慈愛の精神を析出するであろう。理性と慈悲を結び付ける場所に辿り着くこと、それこそが涵養された人間性の到達すべき最も崇高な境涯であると私は思う。