サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

小説「古都」

「古都」 14

何処へ向かって歩いていく宛もなかった。持て余した退屈で孤独な時間の有意義な使い途は、私の脳裡に浮かばなかった。ぶらぶらとJRの駅前まで散策して、忙しない雑踏の風景に我知らず気圧された揚句、私は愈々途方に暮れて立ち止まった。 秋南と最後に酒を…

「古都」 13

秋ちゃんは、少し鼻っ柱が強いだけで、根っこの部分は優しく、素直で可愛らしい女の子でした。傍目には活発で、姉の言うことに逆らってばかりの我儘娘でしたが、それは抑え付けられた感情の、健全な恢復の為の手段だったのではないかなと、総てが手遅れにな…

「古都」 12

思いもしないときに、例えば夏の夕暮れに、痩せた蝙蝠の影がオレンジ色の街燈へぶつかるように、突然に破局というものはやってくる。いや、思いもしないなんて言い方は、本当は嘘っぱちだ。少しずつ知らない間に浴室の壁に黒黴が繁殖していくように、それは…

「古都」 11

秋南は何時しか、京都での生活を忌み嫌うようになりました。私たち夫婦にとって、夏は噎せ返るほど蒸し暑く、冬は身を斬るように寒い京都の町は、それでも紛れもない故郷であり、人生の根拠地です。秋南だって、その古都の懐に抱かれて大きくなったのです。…

「古都」 10

秋南は快活で、何処か息子のような娘でした。人形で遊ぶより、母親の真似をしてオママゴトに興じるより、外光を浴びて、外気のただ中で、汗の滴を陽に燦然と燃やしながら走り回っている方が、あの娘の性には合っていたのです。小さい頃、自転車に跨って淀川…

「古都」 9

私は厳しく躾けられて育ちました。母は真宗の敬虔な信者で、子供の頃、しばしば本願寺へ連れ歩かれたのを覚えています。夏の京都の白く眩しい光の中を、私は退屈しながら歩きました。虹色の小さなサンダルが、アスファルトに灼かれて熱かった。帰り道に、昵…

「古都」 8

小さい頃の記憶は、きれぎれにある。あたしが未だ幼稚園に通っていた頃、ママはいつも言っていた。そんなお転婆なことは慎んで、と。慎むという難しい言い方も、しつこく繰り返されるうちに、あたしの小さな耳によく馴染んでいた。思えば、それが総ての始ま…

「古都」 7

伯母と言葉を交わすのは久々だった。暫く見ない間に皺が増え、白髪が増え、背丈が縮んだ。身内が逝く度に、命の深い部分を削られるのだろうか。況してや今回は、最愛の娘なのだ。啀み合う日々が続いていたにせよ、開いた傷口から濫れる血潮は並大抵の量では…

「古都」 6

勿論、好きにすればいい。秋南の人生は、秋南のものだ。人から事細かに指図を享けながら築き上げた人生に、如何なる意味があるだろう。だが、誰も自分自身の本当の欲望の正体など、理解していないのが世の常ではないだろうか。これが自分の希望だと信じ込ん…

「古都」 5

新米ながら熱心に働いて、長時間労働も厭わず、それなりに容貌の見栄えがして明るく人懐っこい気質であれば、自然と男が出来るのも不思議ではない。化粧品売場を管理するマネージャーの一人と親しくなり、幾度か食事に誘われて、酒を酌み交わすうちに言い寄…

「古都」 4

毎年の夏の休暇に、母の郷里である京都へ帰省するのは、私の幼年期から続く我が家の慣習であった。蝉時雨が一斉に間断なく行われる打ち水のように姦しく鳴り響く古びた街衢へ、幼い私は何時も華やいだ特別な気持ちで旅した。東京駅から新幹線に乗り込み、母…

「古都」 3

強力な空調の吐き出す冷えた空気が、黒い礼服の繊維の一筋毎に深く染み込んだ苛烈な暑気の残滓を払った。降り注ぐ燦爛たる陽射しに堪えかねて緩めていたネクタイを不図思い出し、入念に締め直してから歩き出す。受付で名乗り、神妙な面持ちに一縷の柔らかな…

「古都」 2

停車した名古屋駅で、私は束の間の転寝から目醒めた。豪勢な弁当を平らげてデッキの喫煙所で一服し、席に戻って持参した読みかけの小説を開いたところまでは覚えていたが、そこから先の記憶はトンネルに吸い込まれたように闇に融けて再生が出来ない。米原を…

「古都」 1

その日、午後から東京は酷い雨が降るという予報で、その分厚い雨雲と暴風の野蛮な交響曲に捕まる前に颯爽と出発したいというのが、そのときの私の希望の総てであった。駅舎の地下深くに押し込まれた、古代の墳墓のように寒々しい総武線快速のプラットフォー…