サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「古都」 2

 停車した名古屋駅で、私は束の間の転寝から目醒めた。豪勢な弁当を平らげてデッキの喫煙所で一服し、席に戻って持参した読みかけの小説を開いたところまでは覚えていたが、そこから先の記憶はトンネルに吸い込まれたように闇に融けて再生が出来ない。米原を過ぎる頃には雨が上がって、東京の陰鬱な天候が嘘のように空は青く澄み渡った。夏の猛烈な光が見渡す限りの田園に澄明なニスのように広がり、雪崩れている。静かに呼吸を整え、京都駅の接近を知らせる車内の放送に耳を傾けた。この古びた都へ足を運ぶのは何年振りだろうと考えて、前回も祖母の法事であったことを忽然と思い出した。
 母方の祖母は大徳寺の近くに古びた家を構えていて、連れ合いを亡くしてからは十年ほどの長きに亘って静かな独り住まいであった。丁度、入梅の季節に体調を崩し、蝉の姦しい叫び声が燃え盛るほどに容態は悪化の一途を辿った。その年の夏の暑さは殊に厳しく、高知ではダムが干上がり、時には熱中症の搬送者が日に三百人を超えることさえあって、伯母が足繁く通い詰めて甲斐甲斐しく介護に励んだものの、涙ぐましい努力は実らずに、祖母は九月の頭にひっそりと自宅で息を引き取った。直前の盆休みに墓参りを兼ねて訪ねたときも、祖母の弱り方は痛々しいほどで、爺ちゃんの墓に行けない自分の驚くべき老衰をか細い声で頻りに恥じていた。真宗の熱心な門徒であった祖母は元来、四十代でカトリックに帰依した伯母の「舶来趣味」を酷く嫌っていて、彼女の献身的な看病と介抱にも「ありがとう」の言葉一つさえ頑なに吝しんだ。祖母が亡くなった後、通夜の席で伯母が窓硝子を鑢で擦るような甲高い歔欷の声を延々と絞り出しながら、薄暗い仏間に置かれた棺桶に狂ったように縋りついている姿を目の当たりにして、私は意表を衝かれた。親子の情というものが、どんな不可解な絡み方をするものか、その秘められた側面を窃視してしまったような当惑が骨身を咬んだ。
 祖母が生きていたら、彼女は秋南の自殺をどのように捉えるだろうか。伯母の麻疹めいた欺瞞的な「基督教信仰」に諸悪の根源を見出し、癇のきつい説教を石弓のように番えて娘の教育の帰結を難じるだろうか。秋南自身は特別、母親の宗教的信条に釣り込まれていたとも思えないが、或いは知らぬ間に遠赤外線の如き間接的な影響を受けて、凡人には測り難い神学的な懊悩に苛まれていたのかも知れない。キリスト教は自殺を禁じていると聞いた覚えもあるが、詳しいことは何も分からない。何れにせよ、そんな臆測は、蒼白な顔色の妻が浮かべる不吉な妄想と五十歩百歩の同類だ。噎せ返るような暑気に覆われた京都駅のプラットフォームに降り立って、梅雨の合間の赫奕たる蒼穹を仰ぎ、私は疲労に満ちた溜息を吐いた。無数の不分明な事実が相互に絡み合い、やがて解ける見込みさえ失って、私の脳裡に絶えず不愉快な重圧を注ぎ続けていた。
 百万遍までタクシーに乗ったのは、葉脈の如く入り組んだ京都のバス路線を適切に使いこなす自信を持てなかったからだ。夏休みには未だ早い時期であったが、観光に訪れる善男善女の姿は枚挙に遑がない。何が悲しくて、こんな蒸し暑い吹き溜まりへ、湿気の袋小路のような盆地へ大挙して押し寄せるのか、その心情は理解し難い。次々に往き過ぎる学生たちの自転車を避けて歩きながら、携帯の画面に開いた地図を頼りに狭苦しい路地を幾つも折れる。白っぽい外観の建物が、鬱陶しい長雨の切れ目を狙ったように騒ぎ出した夥しい蝉の合唱と、燦然たる陽射しに包まれて薄気味悪い沈黙を守っている。駐車場には黒塗りのタクシーや葬儀屋のマイクロバス、そして複数の自家用車が居並んで、建物の投げ掛ける濃密な陰翳を静かに受け止めていた。葬祭の手伝いという名目で京都駅に程近い高級なホテルへ前泊した私の両親は、旅情に浮かれたのか昨夜、烏丸御池にある京野菜を用いた創作和食の店でたっぷりと舌鼓を乱打した旨、律儀に呑気なメールを寄越していた。あれだけ無惨に落ち込んでいた母も、いざ忙しく動き出せば陰気な懊悩は自ずと薄らいで、案外逞しく気分を持ち直したらしい。その旺盛な「年の功」とやらを見習いたくとも、青二才の分際で晩秋の収穫を前借しようと試みるのは無理な相談である。
 だが、そもそも私には、秋南の訃に接した直後の母が露骨に示したような生々しい悲嘆が、何処か縁遠い、不可解な絵空事のように感じられた。テレビのニュースで流れる首吊りや飛び降りの報道と似たような距離感が、私と秋南の遺骸との間には穿たれていた。久々に京都まで来て、葬儀会館の無愛想な建物を間近に眺めても猶、私の感情と、秋南が自殺したという物理的現実とは巧く重なり合わず、無理に整合させようと試みれば試みるほどに却って両者の齟齬が際立って見えた。その落ち着かない断層が、棺に納められた無言の彼女と対面することによって少しは埋まるのだろうかと曖昧に考えつつ、私は静寂に覆われた玄関の自動ドアに軽く手の甲で触れた。