サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(Observe Everything Carefully to Avoid Falling into Foolishness and Madness)

*人間は愚かであることから逃れられない。どんなに賢明な選良であっても、あらゆる種類の愚行を回避することは不可能に等しい。立場が違えど、その立場に固有の愚行に陥って様々な弊害を惹起するのが人間の性というものである。
 愚行という言葉が包摂すべき範囲は果てしなく広い。例えば法律に違反する犯罪行為は悉く愚行に違いないが、その愚かさの性質には無限のニュアンスがある。痴漢の愚かさと、詐欺師の愚かさと、殺人犯の愚かさには、色調や温度、意味合いの差異がある。そもそも、愚かさという性質は、人間の内部で、あらゆる分野に均等に浸潤する要素であるとは限らない。社会的地位や名声に恵まれ、自己の仕事において卓越した才覚を示す人間が、同時に愛欲や金銭について鼻持ちならない深刻な愚行を演じることは珍しくない。或いは日頃万事に注意深く沈着である人物が、何かの拍子に、たった一度の致命的な愚行を演じて、取り返しのつかない没落の深淵に沈むということもあり得る。見るからに愚かな人間だけが愚行に走る訳ではない。地位も評判も申し分のない、周囲からの信頼も篤い人物が、闇に紛れて醜悪な愚行の連鎖に陥っている可能性は決して小さくない。
 その意味で、人間が完全に賢明であろうとすることは確かに無謀な試みであり、法外な野望であると強調すべきかもしれない。自分では賢明な判断を下した積りであっても、傍目には愚行の極致に他ならないという事例も無数に実在する。そもそも、自分の愚かさに気づかないというタイプの愚行さえ有り触れているのである。そう考えれば、愚行を回避することの困難は名状し難い難易度を誇っていると言えるだろう。我々に為し得ることはただ、少しでも愚行の総量を減らすことだけである。虫歯を根絶することは困難であるが、地道なブラッシングで虫歯の進行を停滞させることは出来る。愚行そのものを人間の内部から完全に除去することは出来ないが、愚行の悪化、進行、拡大を食い止めることは不可能ではない。その為には先ず、様々な愚行の類型と事例に通暁することが不可欠である。
 所謂「物語」の社会的効用はまさに、こうした点に存するのではないだろうかと私は思う。小説でも漫画でも、ドラマでも映画でも構わない。人間の思惑や行動を描いた作品は、少なくともそれが優れた作品である限りは、人間の存在に関する何らかの真実を示している。人間が何を考え、何に強いられて、如何なる行動に帰着するのか、それを仮想的に経験させるのが「物語」という装置の機能であり役割である。そして大抵の小説には、何かしら人間の愚かしさが刻印されているものであり、もしも登場する人物が軒並み、如何なる瑕疵も持たない聖人君子の類であったら、物語の成り行きは極めて平板で退屈なものになるだろう。
 例えば、三島由紀夫の「金閣寺」の主人公である溝口は、金閣寺の徒弟という立場でありながら、肝腎の金閣に火を放ち、自らの人生を棒に振る道を選び取る。それ自体は明らかに愚行であり、傍目には殆ど狂気に類する蛮行である。しかし、その事件の顛末を精細に描き出し、倦まずに語り続ける三島の偏執的な筆致を通じて読者は、その愚行の固有性、独自の生理を想像的に体験することが出来る。無論、三島の描き出す放火犯の肖像は余りに思弁的、余りに審美的、余りに観念的で、三島自身のオブセッションや哲学を濃密に反映したものであるから、同様の愚行を演じる危険性を背負っている人間は、実際には極めて限定的な水準に留まるだろう。或いは、安部公房の「他人の顔」の主人公は、顔面を覆い尽くすケロイド瘢痕を隠して他者との回路(主としてセクシュアルな関係)を再建する為に、精巧な仮面の作成を企てる。そのプロセスを入念に描き出す安部公房の筆致を通じて、我々は彼の狂気を、その特殊な愚かさをありありと思い浮かべることが出来る。火傷を隠す為に精緻な仮面を開発し、実在しない他人に成り済まして自分の妻を誘惑するという筋書きは(そして実際には正体を見抜かれていたという醜悪な蹉跌は)、客観的に眺めれば筋金入りの愚行に過ぎないが、その愚行の切実な動機を鑑みれば、他人の愚行を指弾することは容易であっても、自己の愚行を是正することは極めて困難であるという有益な真理に開眼せざるを得ない。
 様々な芸術的作品を通じて表出されてきた人間の多様な実存的形態は、人間の生が極めて可変的で、野蛮で、良識に抵触する本質を備えているという普遍的な事実を明確に示している。我々は様々な他者の事例に学び、愚かさの多彩な様式を知り、その蓄えによって自らの愚行を抑制し、健全な生活の部分的実現に期待を寄せるしかない。それは同時に、愚行への寛容さを育む手段にもなり得る。他人に害悪を及ぼす類の愚行は抑制されねばならないが、時に愚行と思われた行為や決断が、画期的で有益な成果に結実する場合もあることも、我々は同時に学習し、肝に銘じておかなければならない。他者の愚行に対する狭量な迫害もまた、結果として人間の愚行の一端を成す虞を内包しているのである。良くも悪くも、我々は自身の愚行の早期発見と適切な処置を心掛けて、階段を踏み外さぬように注意して生きるしかないのだ。