サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

2016-02-01から1ヶ月間の記事一覧

「人間通」の文学 / 「反復」を拒絶する「思想」

ここ数日『「人間通」の文学』と称して連続的に同一のテーマを取り上げている。 saladboze.hatenablog.com saladboze.hatenablog.com 先日の記事では、私は大岡昇平や坂口安吾の作品を導きの糸として「反復」という概念について考察を加えてみた。本日はその…

サラダ坊主風土記 「千葉」(「常磐線」と「総武線」の異質性をめぐって)

私は元々、大阪の出身である。だが、父親の転勤の都合で、中学三年生の春に千葉県松戸市へ引っ越し、それから概ね十六年間、ずっと千葉県内で暮らしている。三十年間の人生のうち、千葉県での生活の方がより多くの割合を占めるようになった訳だ。 大阪へ帰る…

「人間通」の文学 / 反復する「生」をめぐって

先日の記事で取り上げたテーマを引き続き敷衍してみようと思う。 saladboze.hatenablog.com 今日、たまたま立ち寄った市川の有隣堂書店で内田樹の「もういちど村上春樹にご用心」(文春文庫)を買い求め、ぱらぱらと捲りながら読んでいた。その中で内田樹は…

「人間通」の文学 / 「虚無」と「思想」のあわい

坂口安吾が太宰治について書いた有名なエッセイ「不良少年とキリスト」の中に、次のような記述が含まれている。 芥川にしても、太宰にしても、彼らの小説は、心理通、人間通の作品で、思想性は殆どない。 虚無というものは、思想ではないのである。人間その…

「濫読」の他者志向性と「脚下照顧」の主体性

読書は高尚な趣味で、教育上、奨励されるべき習慣であると広く信じられている。無論、そのような取り澄ました考えにアレルギー反応を示す方々も少なからず存在するだろうが、本を読むのは素晴らしいことだという固定観念は、私たちの社会にかなり深々と食い…

「書くように読むこと」で浮かび上がる知見 村上春樹「若い読者のための短編小説案内」

小説を読むことは一つのささやかな個人的趣味であることを免かれない。この命題は、大して特別な意味を持つものではなく、私たちの暮らす社会において至極有り触れた一般的な感覚を指し示しているに過ぎない。小説は今日、一つの文化的な「商品」であり、そ…

蒼いプライド、路地裏のヒロイズム BUMP OF CHICKEN 「K」

音楽について語ることは酷く難しい。それは言葉について言葉で語る文学論とは異質な、異次元の難しさである。音楽は確かに何らかの意味を宿し、それによって私たちの心身に訴えかける非言語的な力を宿している。だが、それを「言葉」に翻訳して語り切ること…

「結婚」の要諦に関する省察

先日、部下の女性社員から妊娠と結婚の報告を受けた。相手は同じ会社の、以前に私の直属の部下であった若い男で、女の方は23歳、男が一つ上の24歳である。何れも新卒で入社してから年数の浅い、つまり安月給の身分で、所謂「できちゃった結婚」という奴…

「才能」という異常値 或いは「適職」という不毛な幻想

先日、中上健次の「枯木灘」を無事に読了したので、新たに大岡昇平の「野火」に着手している。 saladboze.hatenablog.com saladboze.hatenablog.com 暫くの間、中上健次固有の文体のリズムに浸かっていたので、「野火」を読み始めた途端に、がらりと変わった…

NHK礼讃 / 「テレビ」凋落の時代のなかで

私はここ数年、余りテレビを見なくなった。元々朝が早く夜が遅い仕事で、それほどテレビを見る時間がないというのも背景にはあるだろうが、年々関心が薄れていることは確かである。十代の頃、御世辞にも活動的とは言い難い少年であった私は寧ろ、比較的熱心…

呪われた「血」の暴発 中上健次「枯木灘」に関する読書メモ 2

saladboze.hatenablog.com 中上健次の「枯木灘」を読了した。最初に購入した高校時代から考えれば、実に十余年越しでの通読ということになる。読み終えて、こんなに重厚で名状し難い感興に囚われる小説も滅多にないだろうと、素朴な結論に達した。私の乏しい…

言葉について語ることが何故、視野を拓くのか 柄谷行人「畏怖する人間」

「文学」という言葉を聞いてどのようなイメージを浮かべるのかは、人によって意見の分かれるところだろう。堅苦しくて面倒臭そうで近寄りたくない、という印象を持つ人も少なからず存在するだろうし、余り親しげなイメージのある言葉ではないと思う人の方が…

「プレステ」の時代と、私の追憶 1 「moon」(1997年)

私が小学生低学年だった頃、テレビゲームの世界は任天堂のスーファミ(スーパーファミコン)の全盛期だった。ドラゴンクエストやファイナルファンタジー、クロノトリガーといった国産RPGが爆発的なヒットを記録し、私たち小学生は夢中になって、電子的な…

「偏愛」こそ「至上の愛」である 澁澤龍彦「偏愛的作家論」

先日の記事で、学生時代に初めて読んだ作家について書いた。 saladboze.hatenablog.com そのときの回想が残響のように眠っていた記憶を揺り起したのか、久々に思い出した一冊がある。江藤淳と同じく、暇を持て余した大学生の頃に何度も執拗に読み返した、澁…

「文体」に顕れる「思想」 江藤淳「作家は行動する」

私が江藤淳という評論家の名前を初めて知ったのは確か、中学三年生の頃に柄谷行人の「意味という病」という本を偶然父親の書棚から発掘して、恐る恐るページを捲り始めた頃であったと記憶している。それまで一度も聞いたことのなかった江藤淳という作家の書…

「美醜」の階級性 谷崎潤一郎「刺青」

谷崎潤一郎の実質的な処女作「刺青」は、一篇のグロテスクな御伽噺のような風合いを備えている。その印象の所以は、この作品が写実的なリアリズムとは全く無関係な原理に基づいた戯画化を施されている点にある。ここには、自然主義的なリアリズムとは無縁の…

「田舎暮らし」への素朴な信仰について

先日来、部下の一人が農業の勉強をやりたいと言って退職を願い出てきている。色々と話し合い、説得も試みたが意志が強固でどうにも覆りそうにない。話を聞いてみると、居候のような立場で月々五万円ほどの金を貰いながら住み込みで農家の仕事を手伝うらしい…

「血縁」の反復と「地縁」の閉塞 中上健次「枯木灘」に関する読書メモ 1

最近、中上健次の有名な長篇小説「枯木灘」を通勤の行き帰りの電車で少しずつ読み返している。とはいえ、手元の文庫本自体は高校時代に買ったもので、途中まで読んで投げ出していたから、殆ど初めて通読するようなものである。とりあえず折り返しを僅かに過…

「戦争の時代」の子供として生まれて 大江健三郎「死者の奢り」

優れた作家であればあるほど、その社会的な名声が広範囲に行き渡っていればいるほど、毀誉褒貶の振幅が劇しくなるのは作家に限らず、あらゆる分野の「著名人」に付き纏う通弊である。だが、作家の場合には、その生み出した作品がそもそも「鑑賞されるもの」…

自由自在に語ること 坂口安吾「私の小説」

私は中学生の頃、退屈な夏休みの最中に思い立って本屋へ出かけた。松戸駅の駅ビルに入っている本屋で、たまたま角川文庫から出ていた「堕落論」を買って帰った。「堕落論」以外にも彼の代表的な文章が幾つも収められた手堅い編輯の一冊で、その一冊に偶然出…

「小説」という束縛よりも根源的な領域 夏目漱石「吾輩は猫である」

私が初めて夏目漱石の「吾輩は猫である」を読んだのは小学生の時で、当時講談社から出ていた青い鳥文庫に収録されていた子供向けのバージョンが、その相手であった。とはいっても、別に内容が原典と異なっていた訳ではなく、子供でも読んで意味を理解出来る…

誰のための「神」なのか? 遠藤周作「沈黙」をめぐる断片的省察

遠藤周作の代表作とされる小説『沈黙』(新潮文庫)を初めて読んだのは数年前のことで、その作品の名声については、それこそ高校時代の現国の便覧などにも記載があったから耳にはしていたが、実際に繙くまでには随分と長く時間がかかった。キリスト教の信仰…

語り得ないものを語ろうとすること 村上春樹「中国行きのスロウ・ボート」

村上春樹の短編小説、特に初期の頃の作品群はどれも、具体的で明確な意味に結実することを拒むように、確固たる物語の輪郭から逸れていく性質を持っている。処女作である「風の歌を聴け」などはその典型的な例で、極めて断章的な性格の強い文章の連なりが、…

静寂・抑制・果断 丸山健二「夏の流れ」

「それ」は極めて簡潔で平明な口調によって、あくまでも淡々と、何気ない日常の連なりとして語られ、描写される。 丸山健二の「夏の流れ」という短い小説に通底するのは、このような「語り」の方針である。「それ」は語られるべき対象であり、小説において虚…