サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「結婚」の要諦に関する省察

 先日、部下の女性社員から妊娠と結婚の報告を受けた。相手は同じ会社の、以前に私の直属の部下であった若い男で、女の方は23歳、男が一つ上の24歳である。何れも新卒で入社してから年数の浅い、つまり安月給の身分で、所謂「できちゃった結婚」という奴である。私はそんな軽率な行為に踏み切るような子だとは考えていなかったので、休憩中の社員食堂で度肝を抜かれてしまった。

 昨年の春から夏の終わりぐらいまで、二人は何れも私の直属の部下であった。交際していることは知っていたが、付き合い始めて一年も経たないうちに急転直下、このような慌ただしい成り行きに至るとは想像もしていなかった。彼女は若いながら優秀な社員で、会社からも将来を嘱望されている子であったから、私の上司も裏切られたような気分で珍しく気落ちしていた。誤解を避けるために附言しておくが、私も私の上司も、彼女の妊娠そのものに関しては祝福を惜しまない考えである。経緯がどのようなものであれ、一人の女性が新たな生命の種子を宿すということは絶対的に慶賀すべき事態に違いない。それがいい加減な避妊の結果であることには眩暈を覚えずにいられないが、私が眩暈を起こそうが下痢を垂れ流そうが、妊娠は一つの幸福な奇蹟である。

 だが、未だ二十三歳の若い身空で(彼女は短大卒だったか専門卒だったかで、年の割に周りよりも社歴が長いのである)、会社から能力も認められている状況の中で、付き合って日の浅い男と妊娠を契機に済崩しに結婚へ縺れ込むというのは、非常にリスキーな選択肢であると言わざるを得ない。幸福になれないとは言わないが、幸福になるための難易度が通常よりも、つまり然るべき順序を踏んだ上での結婚・妊娠と比較した場合に著しく高いことは客観的な事実であろう。わざわざリスクの高い選択肢を選ぶのは、しかもそこに正当な見返りが約束されている訳でもない以上、愚昧な判断である。幸福を望むのは人間の普遍的な性であり、子宝を授かることが女性だけに許された崇高な特権的幸福であることもまた、普遍的な事実であろう。だが、夫婦としての関係性の強度が時の試練によって明確に見定められた訳でもない段階で、軽率に子供を作るのは、自ら不幸の泥濘へ爪先を差し入れるようなものであると、私は思う。

 私自身、二十歳の世間知らずの盛りに、所謂「若気の至り」という奴で年上の離婚経験がある子持ちの女性と「できちゃった結婚」をした。結局は五年半ほどで離別に至ったのだが、やはり物事の順序というのは大事で、或る男女が知り合い、徐々に距離を縮めていき、永久に添い遂げることを互いに誓い合って籍を入れ、華燭の典を催して世間に結婚の誓約を行なう、という一通りの筋書きには、その後の幸福を強固なものにするための効果が確実に備わっている。夫婦としての屋台骨が揺るがないことを明瞭に確認した上で子供を作るのは、その方が夫婦の幸福のためにも子供の幸福のためにもプラスの方向へ働くからである。無論、二十歳過ぎの奇妙な自信に満ち溢れた時代には、そのような「順序」の意義というものは骨身に沁みていないのが普通である。色々な人生の先達からの忠告や警告を浴びせられても、それによって勢い余った決意が揺らぐということは滅多にない。それは若さの特権であると言えるが、その特権に附随する愚かさの皺寄せは、今回のような場合には無力な子供へ圧し掛かることになる。それが何よりも不安の種なのだ。

 そもそも、厳格な避妊を行なっていた訳でもない一組の軽率な男女が、妊娠を契機として結婚に踏み切ることを「できちゃった」と形容するのは欺瞞である。いい加減な避妊をすれば子種が宿るかもしれないというのは一般的な常識であり、若いとはいえ、曲がりなりにも社会人として一丁前の顔をして働いていながら、その程度の基礎的な「保健体育」的知識を弁えていなかった筈がない。子供を授かる可能性を頭の片隅に過らせながら、真剣に直視せず妊娠へ至ったことは責められて然るべきである。二人が不幸になるのは自業自得であるから止むを得ないが、夫婦としての訓練の蓄積が不充分な両親を持った子供に、その不幸の御裾分けが押し付けられるのは他人事であっても義憤に堪えない話である。だからこそ、私たち「大人」は手順を遵守しなければならないのだ。自分自身の順序を誤った最初の結婚と、その後に離婚へ至った悲喜交々の経験を顧みても、順序を踏むことの重要性は明白である。

 夫婦というのは彼氏・彼女のような着脱自在、交換可能の関係性ではない。彼氏や彼女はどれだけ愛し合っていても所詮は「赤の他人」同士に過ぎないが、結婚は相手のことを「身内」として迎え入れるための制度である。好きだとか嫌いだとか、そういう表層的な感覚に基づいて営まれるべき事柄ではない。死ぬまで添い遂げる覚悟を以て挑まなければならない。そのためには、二人の関係性の着実な「検証」が必須である。どんなに困難な課題に直面しても、二人で話し合い、力を合わせて乗り超えることが出来るのだという「信頼」を、実際の経験を通じて培っていくのが、夫婦という特異な関係性に課せられた使命である。そうでなければ「結婚」という制度には何の意義もないだろう。そうやって計画的な「合意」を積み重ねていくことの延長線上に初めて「子作り」という選択肢が出現する。堅牢な信頼の絆で結ばれ合った両親の下でこそ、子供は安心して健やかに育つことが出来る。無論、片親の子として生まれ育ったからと言って「幸福」から疎外される訳ではない。だが、安定した関係性を構築しきれていない若い男女の下で振り回される「子供」の不幸を軽減するための努力は「大人」の側でしか引き受けられないのだ。

 だが、こういうことは実際に自分自身の経験として痛みを伴いながら思い知らない限り、本当の意味で腑に落ちることはない。若者は常に無責任で過剰な自信を漲らせているもので、第三者が偉そうに語って聞かせる諭告の言葉に傾聴の姿勢を示したとしても、それは往々にして「社交辞令」でしかない。だが、結婚を焦るなんて馬鹿げているし、子供を作ることに「前倒し」など無意味である。自分自身がきちんと「大人」として成熟しない限り、「子供」を愛することは難しい。「子供」に「子供」は愛せないし、養育することも不可能であるに決まっている。「子供」と「大人」の線引きを明確に定めることは難しいが、或る角度から限定的に言わせてもらえば、「子供」の役割は「愛されること」であり、「大人」の役割は「愛すること」である、ということになる。「愛されること」に慣れ親しみ、物足りなさすら覚えて、寧ろ自分から積極的に「愛すること」へ軸足を移していく準備の整った人間だけが、社会という無慈悲な領域において「大人」を名乗ることを容認される。無論、それさえも本当は「物語の始まり」に過ぎないのだ。若い彼らの無謀な決断を、世間知らずの餓鬼の飯事のように嘲笑ってばかりもいられない。私自身、二度目の婚姻をきちんと「幸福」へ結実させるための苦闘を不惜身命の覚悟で生き抜いていかねばならない。だが、それでも頑迷に言い張らせてもらいたい。物事には必ず「順序」というものがあり、そこには最大公約数の「正解」が含まれている。自分たちだけの独自の「幸福のかたち」を追い求めるのも結構だが、凡人は凡人らしく従来の「順序」を踏襲することから人生を始めるべきである。