サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

観照的主体への怨讐 三島由紀夫「月澹荘綺譚」

プラトンの『テアイテトス』(光文社古典新訳文庫)を繙読するのに草臥れたので、久々に三島由紀夫の小説に就いて書く。取り上げるのは「月澹荘綺譚」(『岬にての物語』新潮文庫)である。 この小説は、三島由紀夫という作家が繰り返し自作の主題に挙げてき…

プラトン「テアイテトス」に関する覚書 2

プラトンの対話篇『テアイテトス』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。 「知識とは何か」という聊か抽象的な設問は、哲学という根源的思考の領域においては、安易に忌避することの出来ない難問である。「知識」という言葉自体は、我々の日常的な生活に悠然…

「誘惑」に就いて

私の職場は女性が多く、色恋沙汰に関する悩み事や様々な見解などが日常的に飛び交っている。結婚や出産も含めて、そうした性愛的な事柄に関するスタンスは人によって千差万別であり、趣味嗜好も実に多様である。先日は「色気とは何か」ということが話題に上…

プラトン「テアイテトス」に関する覚書 1

プラトンの対話篇『テアイテトス』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。 「テアイテトス」の前半は、プロタゴラスの教説に象徴される「知識=知覚」の等式を反駁することに充てられている。この等式と、そこから導かれる「相対主義」(relativism)の言説が、…

Cahier(relativism and alternative facts)

*最近は専らプラトンの対話篇を読んでいる。断続的に取り組んでいた『国家』(岩波文庫)の繙読を漸く了えて、その後は『パイドロス』(岩波文庫)に進み、現在は『テアイテトス』(光文社古典新訳文庫)に着手している。 プラトンの厖大な対話篇が綴られた…

プラトン「パイドロス」に関する覚書 2

プラトンの対話篇『パイドロス』(岩波文庫)に就いて書く。 「パイドロス」の主要な議題は所謂「弁論術」(techne rhetorike)である。前半において詳細に論じられた「エロス」(eros)に関する相互に対極的な二つの学説は、弁論術の恣意的で詭弁的な性質を露わ…

プラトン「パイドロス」に関する覚書 1

プラトンの対話篇『パイドロス』(岩波文庫)に就いて書く。 「パイドロス」の前半において熱心に追究される主題は「恋愛」(eros)である。尤も、この「恋愛」に関する精密な定義を示すことが、必ずしも当座の目的であるとは言えない。恐らくプラトンの意図は…

プラトン「国家」に関する覚書 17

プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。 プラトンの考えでは、人間の「霊魂=精神」(psyche)は不滅なる「実在」として定義される。「肉体」が生成的な現象界の裡に拘束されているのに対し、人間の「精神」は本来「実相」(idea)に類する存在であ…

プラトン「国家」に関する覚書 16

プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。 「国家」第十巻の前半においてプラトンは、芸術に関する議論を提示する。この議論は当然のことながら、プラトンがこれまで執拗且つ精細に展開してきた「実在」と「現象」の二元論的構図に依拠して語られ…

「Hopeless Case」 13

喫茶店を領する雑多な物音、誰かの低い話し声や、洗い物の食器が触れ合う硬く軽やかな響きや、静謐な音量で流れる異国の言葉の楽曲、それらの緊密な重なりが育む生温い居心地の良さに包まれて、椿は透明な幸福の感情を咬み締めていた。殊更に意識しない限り…

「Hopeless Case」 12

早春の柔らかな風が、埃っぽい街衢を懶惰に彩る水曜日の晴れた朝、椿は待ち合わせの場所に指定された本郷の小さな喫茶店で、静かにミラン・クンデラの「冗談」を読んでいた。尤も、充分な集中力を発揮して、その物語の奥地に分け入っていたとは到底言い難い…

「Hopeless Case」 11

川崎辰彦の勤める小さな出版社に、どうにかして雇ってもらおうという厚かましい魂胆が何時から椿の魂の一隅を占めるようになったのか、その明確な日付は曖昧に掠れていた。淡々とした事務的な物腰で、零細企業の哀切な世過ぎの風景を物語る辰彦の野暮ったい…

「Hopeless Case」 10

「素敵なイヤリングだね」 川崎辰彦かわさきたつひこの然り気ない賞讃は、事務的な会話の流れに極めて巧妙に織り込まれていたので、椿は一瞬、言葉の意味を掴み損ねた。そのとき椿の耳朶に揺れていたピンクゴールドのイヤリングは、亘祐と別れてから最初に迎…

「Hopeless Case」 9

我関せずの気儘な態度を貫くには相応の覚悟が要る。失恋の痛手に冷静な理智を曇らされた椿は暫く、怠惰で自由な生活に埋もれて世捨人の境涯に身を窶していたが、早春を迎えて就職活動が本格化すると、両親や教員からの社会的な圧力は俄かに強まって、彼女の…

「Hopeless Case」 8

吹き荒れる夥しい官能的な火箭の嵐を潜り抜けて、椿の生活は潔癖な修道女のように無垢な日課を刻み続けた。別に生来の豊富な好奇心が、燃え尽きた蝋燭のように涸渇したという訳ではない。ただ、彼女は昔の軽薄な人懐っこさを慎重に排除し、他人との適切な距…

「Hopeless Case」 7

恋が醒めた途端に人は、魂を丸ごと交換したような劇しい変貌を遂げる。椿は、そもそも自分自身の魂が変貌するような恋愛を知らずに長く過ごしてきたから、亘祐と訣別した後は暫く、蝉の抜け殻のように何処へも出掛けず、余り小説も読まなかった。他人の色恋…

「Hopeless Case」 6

大学三年生の夏に、亘祐が他に好きな女性が出来たから別れて欲しいと言い出したとき、椿は束の間、彼の言葉の意味を精確に計量することが出来なかった。 亘祐はその年の春から旅行代理店の営業部員として、着慣れないスーツを窮屈そうに纏いながら、社会の真…

「Hopeless Case」 5

椿と亘祐は人前で露骨に戯れ合うことを好まなかったし、二人の絆の縺れ合いを他人の酒肴に供することも嫌っていたから、特に出口の見えない恋愛相談や厚かましい惚気話は常に差し控えた。無論、世間は狭いので、どんなに夜の暗がりに息を潜めても、新宿の眩…

「Hopeless Case」 4

武岡亘祐という男の何がそれほど、他の男たちと違ったのだろうか。いや、そんな大仰な設問は却って事態の全貌を見誤らせる弊害となるかも知れない。似たような時代と土地に生を受け、似たような境遇を過ごして、似たような大学に進んだ男が、その他の有象無…

「Hopeless Case」 3

椿は虚しい高望みに魂を引き摺られて、次々と枕を取り換える移り気な女の子だったのだろうか? 傍目には、そういう好ましくない道徳的評価が適切であるように見えることも少なくなかったに違いない。彼女の持ち前の無責任な博愛主義、殆ど趣味的な博愛主義が…

「Hopeless Case」 2

大学に進んだ後も、椿の魂を奥底から震撼する力を備えた男性との出逢いは中々得られなかった。聊か怠惰で、生真面目で情熱的な大学生を演じる意欲も欠いていた彼女は、入学を機に今までの自分を改革しようなどという殊勝な心掛とは無縁だった。だから、周囲…

「Hopeless Case」 1

椿つばきは幼い頃から読書を好んだ。文字に興味を覚えるのも早く、平仮名や片仮名を目敏く見つけては、両親に読み方を教えろと忙しなくせがんだ。どんな遊びよりも絵本の読み聞かせを最も深く愛し、どんな奇怪な空想でも、見知らぬ異郷の物語でも易々と受け…

「古都」 14

何処へ向かって歩いていく宛もなかった。持て余した退屈で孤独な時間の有意義な使い途は、私の脳裡に浮かばなかった。ぶらぶらとJRの駅前まで散策して、忙しない雑踏の風景に我知らず気圧された揚句、私は愈々途方に暮れて立ち止まった。 秋南と最後に酒を…

「古都」 13

秋ちゃんは、少し鼻っ柱が強いだけで、根っこの部分は優しく、素直で可愛らしい女の子でした。傍目には活発で、姉の言うことに逆らってばかりの我儘娘でしたが、それは抑え付けられた感情の、健全な恢復の為の手段だったのではないかなと、総てが手遅れにな…

「古都」 12

思いもしないときに、例えば夏の夕暮れに、痩せた蝙蝠の影がオレンジ色の街燈へぶつかるように、突然に破局というものはやってくる。いや、思いもしないなんて言い方は、本当は嘘っぱちだ。少しずつ知らない間に浴室の壁に黒黴が繁殖していくように、それは…

「古都」 11

秋南は何時しか、京都での生活を忌み嫌うようになりました。私たち夫婦にとって、夏は噎せ返るほど蒸し暑く、冬は身を斬るように寒い京都の町は、それでも紛れもない故郷であり、人生の根拠地です。秋南だって、その古都の懐に抱かれて大きくなったのです。…

「古都」 10

秋南は快活で、何処か息子のような娘でした。人形で遊ぶより、母親の真似をしてオママゴトに興じるより、外光を浴びて、外気のただ中で、汗の滴を陽に燦然と燃やしながら走り回っている方が、あの娘の性には合っていたのです。小さい頃、自転車に跨って淀川…

「古都」 9

私は厳しく躾けられて育ちました。母は真宗の敬虔な信者で、子供の頃、しばしば本願寺へ連れ歩かれたのを覚えています。夏の京都の白く眩しい光の中を、私は退屈しながら歩きました。虹色の小さなサンダルが、アスファルトに灼かれて熱かった。帰り道に、昵…

「古都」 8

小さい頃の記憶は、きれぎれにある。あたしが未だ幼稚園に通っていた頃、ママはいつも言っていた。そんなお転婆なことは慎んで、と。慎むという難しい言い方も、しつこく繰り返されるうちに、あたしの小さな耳によく馴染んでいた。思えば、それが総ての始ま…

「古都」 7

伯母と言葉を交わすのは久々だった。暫く見ない間に皺が増え、白髪が増え、背丈が縮んだ。身内が逝く度に、命の深い部分を削られるのだろうか。況してや今回は、最愛の娘なのだ。啀み合う日々が続いていたにせよ、開いた傷口から濫れる血潮は並大抵の量では…