サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(Keeping alive with Social Fragmentations)

*引き続き、英語学習を継続する日々を過ごしている。仕事と育児と洋書の繙読で私の生活の過半は占められている。今は HARRY POTTER and the Chamber of Secrets を読んでいる。通勤の途上や休憩時間、就寝前の時間を読書に充てている。差し当たっての目標は、原書でHARRY POTTER seriesを全巻読破し、一般に推奨される繙読単語数100万語の指標をクリアすることである。
 洋書の購入は、勤め先が東京駅であるメリットを活かして、丸の内オアゾに入っている丸善本店を主に利用している。舶来品である所為なのか、洋書は無性に高い。そこでiPadによる電子書籍の購読を思い立ち、先月の下旬に海浜幕張auショップへ行って予約の手続きをした。本来は当日持って帰る意気込みでいたのだが、COVID19の影響で在庫が払底し、数週間の入荷待ちを告げられたのである。今のところ、入荷の連絡は届いていない。テレワークの拡大でノートパソコンやタブレットの需要が急増し、一方でコロナによる生産活動への制約が悪影響を及ぼして現下の品薄を惹起しているのだろう。どの業界も大変である。

*東京駅構内に入居する店舗で責任者を務める私の労働者としての日々は、概ね閑散期が続いている。昨年十一月の感染第三波襲来によって急激な回復基調を示していた旅行客の需要が激減し、本来ならば年間でも屈指の繁忙期であるべき年末年始の帰省需要も、類例のない低迷へ陥った。当該期間における新幹線の利用客数は、観測史上最悪の水準であったと、JRの発表が報せている。或る意味では、貴重な経験をさせてもらっていると言えるかも知れない。それでも年の瀬までは辛うじて人の動きがあったものの、年明け以降、緊急事態宣言の発令も相俟って、客数は更なる凋落の軌跡を辿り、十一月と比較しても、日商換算で60万ほど目減りした。月間で2000万近い売上が、たった二箇月で吹き飛んだのである。何らかのビジネスに関わる方々であれば、この堪え難い苦衷を御察し頂けるものと思う。とはいえ、営業している以上は、人件費を削るにしても構造的な限度がある。従業員の雇用も、一定の水準までは保護せねばならない。こうなると、体感としては頗る暇である。使命を担って働いているというより、店番をしているような気分である。動もすると、自分がここにいる意味はあるのだろうか、という出口の見えない妄念に憑依される。感染状況の変化に附随する売上の乱高下は、昨年からずっと味わい続けているので今更絶望には襲われないが、些少の虚脱した感覚が生じることも避け難い。とはいえ、東京都の感染者数が微減の傾向を維持している足許の情勢では、明らかに客数は恢復傾向である。人々のコロナに対する警戒心が薄れるほどに、弊社の客数は露骨な恢復を示す。商売としては望ましい傾向だが、感染防護の観点から眺めると、こんなに人間の危機感というのは長持ちしないものかとも感じる。飲食店が軒並み20時で閉まるので、持ち帰りの中食需要が強まるのは当然の帰結である。従って平日の夕刻には、それなりの混雑が訪れ、その勢いは日に日に強まっている。経済的には大いに喜ばしいことだ。だが最早、何を歓べばいいのか、基準が曖昧になっている。同じ疫病に苛まれている筈なのに、社会的な分断や格差は拡大している。一致団結、挙国一致という精神は、私自身も含め、戦後七十年以上に亘って国民主権自由主義に馴染んできた日本人には縁遠いものとなっているのだろう。業種によって恩恵を享受するところと損害を蒙るところとが極端な格差を示しており、医療関係者は激務を強いられながら、収益の基礎である通常の外来診療の客数が顕著に減少している為に、給与面の待遇は改悪されているという。三密の回避を呼び掛ける国会議員たちの不正な会食が繰り返し報道されるのも、社会的上層と下層との階級的分断の深刻化を示唆している。JALANAやJRが未曾有の赤字を計上する傍らで、家電や家具、通信、e-commerceの分野は業績が絶好調だという。これらの地殻変動的な不公平は恐らく、社会的構造の決定的な変化を暗示するものである。過去の常識が通用しない世界へ、我々は飛び込みつつある。社会の変化に適合する企業としない企業との格差が鮮明になるということは、今まで前提として信じられていた社会の構造が急激に変容していることの明瞭なevidenceに他ならない。私の勤め先は持ち帰りの惣菜を取り扱っており、その意味では外食の敬遠は追い風になるが、内食の需要増加や競合との過当競争の影響もあり、業績自体は前年に比べて悪化している。郊外の地方都市に立地する店舗は、地元回帰の志向が強まっている分、比較的堅調な推移を示しているが、都心の百貨店や駅立地の店舗は、テレワークの拡大や旅行の自粛、各種イベントの中止で深刻な打撃を蒙っている。明らかに、今直ぐにでもe-commerceの販路を急激に強化していかねばならない局面なのだが、担当する部署の動きは鈍い。その根底には、店舗を構えた小売という既存のスタイルに対する意識の固着が濃密に滞留している。コロナが消え去れば、何れ社会は元通りになるだろうというoptimisticな観測が払拭されていないのである。だから、新規の業態を開発する人々への様々なresourcesとauthorityの供与が進まないのである。無論、決断したことが裏目に出るのではないかという不安や恐懼は私にとっても親しい感覚である。誰でも人間は存在する現実に引き摺られ、存在しない理想への脆弱な信頼しか持ち得ない。嘗て存在したものに執着し、未だ存在しないものを蔑ろにするのは人の世の習いである。何かしら新しい分野への挑戦に踏み切るには、確かに事前の準備が欠かせない。社運を賭けた挑戦ならば猶更、無謀な蛮勇は否定されねばならない。だから、常に現在の手法が好調であり適切に通用している段階において予め、新規の技術や知見を蓄え、試し、養っておく必要があるだろう。それは個人にも言えることで、今直ぐには有用ではない技術や知見を日々着実に鍛えておくことは、社会の情勢が急変した場合のsurvivalの貴重な足懸りとなる。未来への備えは、未来が到来する以前に充分に進めておかねばならない。今この瞬間に無用のものが、永遠に無用であると断定し得る根拠はない。未来が未知の度合を深めれば深めるほどに、何が将来に役立つかという問題は明確な正答を失っていく。そうであるならば、自分自身に固有の関心に基づいて、何かしら基礎的な勉強を日常的に蓄積しておくことは、重要な安全保障の方策となり得るのである。そういう意味でも、私は語学に自分の私的な時間を傾注したいと思う。無論、それが自分の未来を保護する決定打となるという明確な根拠は何処にも存在しない。だが、少なくとも語学の勉強が、致命的な損害を私に投げ与えるとは思われない。現在の瞬間における自分の雇用や社会的価値が永続するとか、或いは順調に進化発展し続けるとか、そういう風に思い込むのは危険だ。社会の大規模な変動は、個人に賦与されている些少の権益を一瞬で捻り潰し、瓦礫さえ残さないだろう。自分自身という幹に新たな枝葉を加えることが一朝一夕には出来ないのならば、直接的に現在の社会的職務とは関わりのない分野の知識や技術を密かに学び続けることは、雇用流動化と副業容認の時代における危機管理の要諦であると言えるのではないか。会社が守ってくれないとしても、我々は生き延びなければならない。整理解雇を断行する非情な会社に泣き言を向けても、肝心の会社が社会から庇護されずに倒壊してしまえば、死人を罵るようなもので、無益で浅ましい。死んだ母親に向かって夕食の仕度をせがむ愚か者が何処にいるだろう? 自分で自分の食事を作る以外に手立てがないことは自明である。そして、思い立ったら急に作れるというものではないのだから、日頃から研究と実践を積み重ねておくのが賢明だろう。良くも悪くも、自立は生活の根幹である。